No (refractory) title : spectrally stable

本、アニメ、映画の感想。時々まじめに物理。ごくたまに日記。

SICARIO (2015) を見た

悪を裁くのは正義だ。しかしその意味は、悪に対する対義語としての正義、という以上のものではない。もし、悪でないから正義である、という同語反復でしか正義を定義できないのならば、はたして正義を求めることに意味はあるのだろうか?悪に対する復讐は正義なのか?悪を打ち砕くための非道は果たして正義なのか?正義とは一体何なのか?

この物語は、主人公であるFBI捜査官のケイトが、メキシコ麻薬カルテル捜査を担当するマット・グレイヴァ―、謎多き元検察官の男アレハンドロ・ギリックと共にメキシコ麻薬カルテル捜査に挑む姿を通して、カルテルと付随する問題を背景に、その究極的問いに答える映画...

ではない!

この映画の目的はずばり、「すみやかに仕事を終えていくカッコいい、渋いおっさんたちを描きたい」でしょう!違います?!そうじゃない?違うのかな…。

いや、確かにこの映画には先の問いかけを描いているようにも見える描写がある。序盤から意味深に、とある家族の風景をちょくちょく差し込んでいるのも、そういったテーマを予感させるための準備だ。でもそれは、物語を転がすための単なる舞台装置なのだ。観客に物語の進行とともにカタストロフを与え、主人公たちが置かれている世界観に観客を引き込むための仕組みでしかない。なぜなら、そんな問題を、決してこの映画は問いかけたり、答えたりしようとしていないから。なにせ主人公は悩むだけで答えをいつまでたっても出さず、もちろん誰かが代わりに答えてくれるわけでもない。というか、答えるのがこの映画の目的ではない。

だってさ、夕焼けをバックに暗視ゴーグルを下ろしながら任務に向かっていく黒い影、緊張感のある無線交信と交戦規定の確認シーン。速やかに任務をこなし、躊躇なく引き金を引いて退却する潔さ。隊列をなして進む四駆。むさい男たちのブリーフィングシーン。そういう、大きな爆発もなく、派手な銃撃シーンがあるわけでもない。ただ速やかに、確実に、こなすべき仕事を淡々と機械的に終えていく、そういうハードボイルドな男たちの戦う姿ってのを、いかした画作りでめちゃくちゃカッコよく描写してるんだもん。なんじゃそのカット。かっこよすぎだろ!これ描きたかっただけやろ!って言いたくもなる。

勿論、扱う内容はショッキングだ。冒頭から麻薬カルテルのえげつない所業がこれでもかと写されるし、同情したくもなるような人々が殺されたりする。でもそれは、単にエンターテイメントとしての躍動感やストーリー展開上の快感をもたらすための要素であって、それらは一つの視覚的効果に過ぎない。正義とは何かと葛藤する主人公は、観客の代理であって、物語の導入と視点を提供する以上の(つまりは所謂典型的な)主人公以上のものではない。そしてこの物語で最も描写したいのは主人公や主人公の取り巻く環境ではなく、マット・グレイヴァ―とアレハンドロ・ギリックなのだから。自らがやっていることが、悪の対義語としての正義以上のものではないということを自覚しながら、あまつさえ、それで自らの目的を正当化する。彼らには葛藤はない。そんな葛藤には、何も意味はないからだ。

復讐は復讐を生み出すということを知っている。殺せば殺し合うのも知っている。だったら殲滅してしまえばいい。殲滅するまで戦えばいい。そう命令されるならそれをなす。それが仕事で、それが目的なのだから。仕事である以上それを遂行するのが、社会に生きる人々の常だ。仕事がなされるならば、そこにどんな感情的原因があろうと、咎める理由にはならない。

自分はこの映画は好きな部類だと思う。意味だとかなんだとかそういう物を求める人には向かないかもしれない。でも、とにかく画作りがきれいだし、いちいちカッコいい撮り方しているしで、映像としての、映画としてのエンターテイメント性は非常に高いと思った。この映画を見て「交戦協定とか確認すんの?かっこえぇえ!」とか思っちゃう上記のコアな性癖を持ってる自分は、もうそれだけで楽しめました。御馳走様です。

03/13/2019 追記 ふと、なぜこの作品において敵は「アルカイダ」ではなく「麻薬カルテル」だったのだろう、と思った。別に舞台が例の中東地域であっても、ハードボイルドな男たちを作れそうな気がする。いや、確かに「テロとの戦い」っていう話はすでに陳腐化していて、壁とかという話で時事的にメキシコっていうのはわかる。

ちょっと考えてもあまり面白そうなことはわからなかった。主人公がマット達と行動しやすくするため、っていうのもあるとは思う。まだまだ修業が足りない。