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本、アニメ、映画の感想。時々まじめに物理。ごくたまに日記。

いま集合的無意識を、を読む

日曜日は神田の本屋に入り浸る。ただし天気の良い日に限る。

30分かけて徒歩で向かい、2時間ほど本屋を歩き回る。運動不足解消のためである。平日の大半は、椅子に座って机に向かってキーボードを叩いている。そうもしていれば腹回りが気になってくるわけで、ずぼらな自分も流石に運動しようという気持ちになってくる。しかし激しい運動は遠慮したいし、特に汗をかくやつは心底嫌だ。健康への配慮と自身の怠惰を天秤にかけて落ち着いたのが、土曜の水泳と日曜の徒歩、ということである。

腹は減ってきたが、がっつり食べようという気分でもない。サンドイッチを食べる15分のために喫茶店に入るのも気が引けた。喫茶店はくつろぐ時間代をあらかじめ料金に織り込んでいる。手ぶらで入ってさっさと出るのは損という気がした。

そんなわけだから、ちょうど気になっていたこの本を買い、ドトールのサンドイッチを頼んだ。

神林長平の短編集で、‘‘仮想の‘’伊藤計劃と語り合う表題作を含め6篇が収められている。一番好きなのは「切り落とし」だけれども、今回はこの表題作について思ったことを書きたい。

この短編では作者神林長平が、‘’仮想の‘‘伊藤計劃との対話というフィクションの形式を通して、彼の作品群の考察と自身の感想を述べている。ある日主人公である作者が「つぶやき」(これはtwitterのこと)を眺めていると、不可解な現象とともに伊藤計劃と名乗る文字列が現れる、というところから始まる。そこから主人公=作者による伊藤計劃作品群(これはハーモニーと虐殺器官を指す)から解釈した伊藤計劃の思想と、主人公=作者のそれに対する感想を述べている。

僕自身は伊藤計劃という人物も神林長平という人物も詳しくは知らない。両者の小説をすべて読んでいるわけでも、それらを深く読解しようとしたこともない。だからここで彼らの思想や考え方を解説することもしないし、この話の中で述べられていることが正しいかどうかも議論しない。自分が得たのは感想でしかなく、誤解や偏見の混じった解釈でしかないからだ。しかしせっかく読んだので、読後感想をまとめておきたいと思う。 (以下、本作品に対する誤解が含まれる)

まずは神林長平と、彼による伊藤計劃の解釈の一部を読む。

神林長平の考える「意識」を次の文から考える。

なぜなら、概念などというのは人間が考える<フィクション>に過ぎないからだ。<リアルな世界>をどう解釈するかという<物語>だ。それを生んでいるのが、まさしくぼくの考える<意識>だ

その先は少しよくわからなかったが、自分は次のように解釈した。 <わたし>とは、世界を解釈する機能であり、故に意識から生じる<フィクション>の一つである。物質的な、或いは物理的な世界から感覚器官を通じて得られた情報を、選択的に処理し解釈するための機能、それが<わたし>である*1。情報を落として解釈された’’それ’’はすでに現実の物質世界の(或いは生の)データを再構成することは出来ず、その意味で<リアル>に対する<フィクション>と言えるのではないだろうか*2

そして彼は、この<フィクション>を構成する機能とは、<想像>する機能と同じであると主張する。共感という機能は相手の気持ちを想像する機能だ*3。一方で、<意識>を失った存在でも、<知能>は持っているということを、そして<意識>は<知能>を制御する機能であると、神林長平は指摘する。

人間のフィクション=意識が対処、対抗している圧倒的なリアルの力とは、人が高度に発達させてきた<知能>だよ。

自分は次のように解釈する。<知能>とは、<意識>が現実を解釈するのに対し、現実そのものを操作するために生まれてきたものであると、神林長平は考えていたのではないだろうか。そして<知能>とは合理性であり、計算である。<意識>は共感を生み、合理性のみの判断を制御している、と主張している、と思う。

上記の<想像>と<知能>について個人的意見を。<想像>については共感する部分もあったけれども、<知能>については、思うところがある。

まず、<想像>について。彼は想像のフィクションと目の前のフィクションは本質的に同じ、ということを述べている気がする。でも確かに、なんで僕らは物語を読んだり見たりして納得感を得るのだろうか。そのキャラクターのリアリティというか、”存在している感”というものを感じるのだろうか。生きているか否かにかかわらず、僕らはその現実感を感じていて、それは意識される(すなわち解釈される)現実と想像は本質的に同じだからじゃないだろうか*4

<知能>についてはどうだろうか。<知能>は合理性の表れかもしれないが、<意識>=解釈する機能に対する補集合として定義される<知能>では、過去の物理法則は発見できなかったのではないだろうか。物理法則というのは、合理性の表れではない。それは現実に対する解釈だと、僕は思う。現実に存在する法則に、エネルギーやエントロピーと言った解釈をつけることで、物理学は発展してきたのではないだろうか。その解釈はその時点での人類の観測技術を超えて法則性を導き出し、当たらしい理論の存在を予測してきた。解釈がない物理学は、今でいう機械学習のように、観測技術の向上によってのみその法則性が見つけ出される。素粒子理論における「理論が先行して予想し、実験がそれに追従する」という形の発展はなかっただろう、と思う。つまり、そういう意味では一般相対性理論も生まれない。

こう書いてきて、なんとなくハーモニーが理解できた気がする。<知能>という合理性が生み出すプロトコルによって、合理的にコミュニケーションのとれた組織的な生命になる。それがハーモニーの最後なんだと。彼らは哲学的ゾンビだけれども、それでもそこには合理性による秩序が生み出されている。その世界では、<あなた>と<私>という区分は存在しない。

その世界はとてつもなく平和な世界に見えてくる。そこには劣等感なんてものはなく、逆に優越感もない。自尊心もなければ共感もない。楽しみだとか悲しみだとかは存在しない。その世界には自らが自らを痛めつける精神的苦痛は存在しない。なんて穏やかな世界なんだろう。<意識>がなくなったとき、人類は人類という種を残す為だけに活動し始める。生産と消費が完ぺきに調整され、人々が種の存続のために自発的に活動し、死滅する。

でもそう考えても、それが本当に良いことなのだろうか。そもそも合理性とは何のか。人類の発展の歴史は合理性だけで発展してきたのだろうか。自らが死ねば5人が生き残るトロッコ問題がったときに自死を選ぶことが合理的なのだろうか。

何も結論は出なかったけれども、久しぶりに哲学とそのSF的理解が深まって有意義だった。物理でも何でもそうかもしれないけれども、思想のある創作物は読んでいて楽しい。生きているという気がする。またこういう頭にズドンと来る小説を読みたい。

それはそうと、次回は気楽に前期アニメの感想を書きたい。

*1:とてもヒューム的な精神の理解じゃない?知覚の束、その劇場が精神っていう解釈

*2:西田幾太郎と純粋経験論との関連も気になる

*3:キズナイーバーを見て

*4:よく読んだら、伊藤計劃記録Ⅱの「人という物語」にこのことが書かれていた。というか、あそこに彼の思想がたくさん書かれているんじゃなかろうか