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本、アニメ、映画の感想。時々まじめに物理。ごくたまに日記。

天気の子 (2019)、を見た

事前情報を限りなくシャットアウトして見た後の感想は、下記ブログとほぼ同じで、「濃密なセカイ系を見せつけられた」って感じでした。

PS2版天気の子を俺たちは遊んだことが有る気がしてならないんだ。 - セラミックロケッツ!

映画館を出た廊下でひとしきりセカイ系であることを脳内で再確認して「君の名は。で獲得したパンピーに見せる内容じゃねぇ」という結論に達したところで、ふと疑問に思ったのです。新海誠はなぜ今、むしろ今さら、こんな2000年代初頭の議論しつくされたようなセカイ系という構造を持ってきたのか?だってセカイ系って、固有名詞があるように散々やり玉に挙げられて、批判されてきた構造で、そんな話を作ればあっというまに使い古された指摘が投げられるじゃないですか。なぜあえて、今こんな話をするのか。

そんな疑問でネットの海を渡っていると、毎日新聞新海誠監督へのインタビューや、NHKニュースでのインタビューがこの疑問の回答になってた。

でも僕は、個人の願いとか個人の欲望とかって、時にはポリティカル・コレクトネスとか、最大多数の幸福とかとぶつかってしまうことがあると思う。でもそういうことが今、言えなくなってきています。(中略) そういうところへの反発やいらだちが私の中でずっとあり、この閉塞(へいそく)感やどうしようもなさを吹き飛ばしてくれる少年少女がほしいという気持ちがありました。

毎日新聞「天気の子」新海監督と川村プロデューサーインタビュー・上 「バッドエンドの作品を作ったつもりは一度もない」より引用

セカイ系の批判の多くは、「主人公が少女に対して二者択一にする世界は、少年の認識によるとても薄く漠然としたものであり、そこに生きる人々を差し置いて少女を選んでよいのか?それは自己中心的で幼稚な行いじゃないのか?」というもので、そしてまさにその批判こそが、今回の映画の目的とする反応だった。多くの人々を犠牲にしてまで、少女を救ってよかったのだろうか?

そういう問いかけをするために、あえてセカイ系と言う構造をまた持ち出してきた。実際、NHKニュースの方ではこんなことを言っている。

例えば『君の名は。』というのは、『災害をなかったことにする映画』だと言われ、結構大きなショックを受けたんですね。(中略)その時に僕が出した結論は『君の名は。』を批判してきた方々たちが見て『もっと批判してしまうような映画』を作らないといけないと思いました。

NHKニュース「君の名は。」から「天気の子」へ 新海誠監督の格闘 “称賛” “批判”を受けとめてより引用

つまり、今回の映画は「君の名は。」の後ではなくては行けなくて、だからこそ今、あのセカイ系という構造を持って来た。

と言うことがわかったところで、じゃあ新海誠はひとまずセカイ系という構造でどういう結論を書いたのか、と言うのが気になってくるのだけど、いろいろ考えながら感想をめぐっていたら、考えていたことに近い考察があった。

天気の子 - たいやき姫のひとり旅

天気の子(その2) - たいやき姫のひとり旅

この方が言うように、そして諸々のインタビューでもあるように、新海誠はこの物語で「自分の大切と思う物を大切にする」と言うことを貫くことの是非を(観客に)投げかけていたのではないだろうか。自己犠牲ではなく、「自分のために祈る」ことを主人公は伝える。しかもそれを見て見ぬ振りせず、大人たちが「世界なんてもともと狂ってる」だとか、「ずっと前には海でした」なんて言い訳も否定して「世界の在り方を変えてしまった」と言う事実を少女の祈る姿から再度自覚する。それでも手を取り合って生きていくことを選ぶ。

以上の記事を読んで、確かにと納得しながら、でも当該リンクだけではなんか悔しいので自分でももう少し何か言いたい。

(以下、適当につらつらと書く)

そもそも「誰も犠牲にせず生きている人なんているのか?」っていう話なのかもしれない。資本主義社会という競争の中では、誰かが誰かの夢を踏みにじりながら自分のために生きているじゃないか。それはただ見えていないだけで、それは水没した東京で緩やかに死んでいく、もしかしたら生まれていたかもしれない、生き続けていたかもしれない人々を差し置いて生きていく主人公たちと同じように、ただ目に入らないだけじゃないだろうか。そんな今の社会を「そんなもん」と思っている大人たちは、この物語を否定できるのか?

お高く留まって幼稚な選択と言うけれども、でも僕らは弱くて、手の届く範囲でしか何かを守れない。目に見えないところで誰かを踏みにじりながら、手の届く範囲でしか何もできないなら、それで一番守りたいものを守る。そうやって大切なものを守り続けながら人々は生きていくんじゃないだろうか。

でもそれで良いのか?って言われると、いやぁ、もっとうまくいかんかなって思うよね...。

本当は誰かを踏みにじりたいわけでもないし、誰もが平和になってほしい。そういう甘いことはないってわかっているけれども、そういう社会になってほしい。世界と少女を選べと言われたときに、両方が助かる道の方が、いいに決まっている。でもそんな選択肢がない時、というかそれが今の社会だと思うけど、そしたら大切なものを守る方を選んでしまう。

やっぱりこの物語は「優先順位をつけること自体に問題はない」ってことを言いたかったんだ。大切だと思う方を貫け、ただその選択をしたことは自覚せよっていうはなし。エンターテイメントの都合上、少女を選ぶことになったけれども、実際はべつに家族のほうが大切だと思うなら家族を選べばよかった。時に世界の正義と反することがあっても、自らが大切だと思う方をとれ、自己犠牲を強いるなって話だった。

行きたいように生きよ、でも何が大切かはよく考えろって話。そして大切なもののために力強く生きろって話。大切なものの順番を根気強く考えろって話。

冒頭のThe Catcher in the Ryeみたいに、この話はすげぇ青臭いんだけど、でも青臭いからこそ見えてくるものがあると思えた、そしていろいろ考えさせられるいい映画だった。

追伸: めっちゃつまらないことに気が付いたんだけど、主人公、明確に「好き」って伝えてなくね?