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本、アニメ、映画の感想。時々まじめに物理。ごくたまに日記。

アイドルマスターシンデレラガールズ(2015) を見た

この物語は、笑顔だけが取り柄の女の子に、仲間たちが次々と進歩していく姿を見せて、「私に笑顔以外の何があるんですか」と泣かせる物語。

ではなく、「普通の女の子たちが自分の輝きを見つけるために一歩踏み出す物語」です。誤解しないように。

とにかくキャラの奥行きがすごい。行動描写が丁寧だから、全ての動作にどのような内的根拠があるのか想像できる。というか、想像できるようにキャラを設計しているし、それを描写している。それが出来るのは、キャラクターがいつ、どういった場所にいるべきか、どう行動すべきかをきちんと詰めているからで、それを描写できるだけの時間的資金的余裕があるから。Cygamesすごい。

多くのキャラクタが登場するし、(多分一人を除いて、というか周りが個性的であるから逆説的に個性的、という意味で)誰もが個性的だから、どのキャラクタを主人公にしてもこの物語はある程度の形になると思うし、誰に感情移入するかで物語の見方も変わる。まぁ、それは物語を見て解釈するという行為につきものなのでここで言うまでもないのだけど、しかし誰に注目してこれからこの物語について述べていくか、という場合に限っては、やっぱりきちんと書いておくべきだ。なのでここで明言しておくけれども、この感想は島村卯月を主人公だと思って述べていく。

さて、自分にとってこのアニメシリーズは、島村卯月、という「よくある普通の、ただ頑張って生きる人へ送る、諦めんな前へ進めっていう激励的アニメ」だった (と書いている時点でかなり重症に傷を負ったのがわかるわけですが)。

島村卯月、と言うキャラクターにフォーカスして、彼女の物語としてこの物語を眺めた時、この物語は、決して「夢を叶える物語」ではない。なぜなら、既に彼女の夢は、第一話で叶ってしまっているのだから。

第一話の冒頭で、他の同期が皆アイドル養成所をやめていく中、彼女は一人レッスンを続けていたことが示唆される。諦めずにアイドル募集に応募し続け、補欠合格でシンデレラプロジェクトに合格する。それ自体が、彼女の夢であり、その時点で彼女の夢はすでに叶ってしまったといっていい。アイドルになってアイドルをすること。仲間たちがいなくなっていく中で、必死に頑張ることで成し遂げた、アイドルになること。その時点で、実は「夢を追いかけ叶える物語」が一つハッピーエンドで終わっていることになる。しかし、この物語は、それがスタートだ。

彼女の夢が叶ってしまった時、では次に彼女は何をすべきなのだろうか。アイドルとして活躍すること、とにかくアイドルとしてアイドルをする。それが当面の彼女の目標であって、第22話までは、それで問題はなかった。というか、問題が顕在化しなかった。第22話になって、その現状維持が不可能になる、つまりnew generations という最初のユニットが分裂し、新たな状況に直面した時、内在していた問題を呼ぶ。「アイドルになった今、じゃあ次に何をしたいのか、どうなりたいのか。」

多くの物語にとって、叶えたい夢を叶えるのはハッピーエンドだけれども、この物語はその先があることを突きつける。アイドルとしてスタートした仲間たちが、それぞれ特技を伸ばし、進歩していく中で、自分は何か進んでいるのだろうかと自問する。笑顔が取り柄で、それが良いと言われたけれども、それ以外は?他人と比べてしまうことで浮き彫りになる自分の平凡さ。島村卯月は、第22話でそれに気が付いてしまう。

こういう感情は、何かを目指していて、誰かと比較してしまって、でも頑張りたくて、という人間には、きっと身近なことだと思う。才能のある周囲の人間と自分を比較したときに、例えその絶対的な立ち位置が、多くの人間より優れていたとしても、自分の没個性を大きな劣等感と共に否応なしに自覚してしまう。それを自覚してしまうと、途端に惨めな気持ちになる。彼らが遠いところに行って、取り残され、あまつさえ足を引っ張るかもしれない。だとすれば、自分なんていないほうが良いんじゃないか。消えてしまえばいいのではないか。迷惑をかけるぐらいなら、いなくなった方がましだ。そう思う時がある。そういう、立ち止まってしまう時がある。じゃあそういう時、どうしたらいいのだろうか。自分の没個性と劣等感にどう決着をつけてやればいいのだろうか。

この物語は、その問いに対して真摯に、悪く言えば冷徹に、答えを述べる。その答えは結局のところ、「探し続けるしかないし、向き合い続けるしかない。」

彼女に隠れた才能があるとか、彼女が気が付かないだけですごい能力があるとか、そういう見え透いた救いに、この物語は逃げない。そこで逃げてしまえば、茶番になってしまうとわかっているから。そんな都合のいいことはない。悩めば救われるわけではない。助けれてくれと言われれば、神様が才能を分け与えてくれるわけではない。現状は、悩み、苦しめば変わるわけではない。そういう救いがないとわかった上で、それでもどうすべきか、この物語は真摯に描写する。

結局のところ、最後に問われるのは、自分がどうしたいかだった。劣等感を受け入れて、それでも自分はどうしたいか、それに向きあって、覚悟を決めるしかない。それはとてもつらいことだ。自分がまるで悪いことをしているかのように思える。だめな自分はいなくなるべきなのに、でも自分は、まだ頑張っていたいと思ってしまう。なぜなら今、自分は夢の場所に立っているから。

救いがあるとすれば、それは彼女を待ってくれる人がいたことだ。彼女の可能性を信じた人々がいたことだ。というか、それしか救いがない。可能性は可能性で、それ以上でもそれ以下でもない。でも、可能性は試さなければ意味がない。彼女はその可能性を信じることにした。それは自分の夢の舞台に立っているという思いだけではなく、少なからず待ってくれている人がいたからだろう。自分の可能性を信じたい。信じ続けるために、挑戦し続ける。挑戦しなくては、その可能性を見つけられないから。待ってくれる人がいて、その人たちと見つけたい。本当にただそれだけなのだ。

そういう意味で、この物語、ハッピーエンドだったのだろうかと言われると、島村卯月というキャラクタに注目する上では、多分そうとは言い切れない。ハッピーエンドといえるほど、問題は解決していないから。それでも、彼女は前向きに生きることを決めた。結局のところ、頑張るしかないのだ。頑張って生きること。それ以外に、実は答えなんてないのだ。彼女がいつも言っていた言葉は、最初からずっと口にしていたそのフレーズは、最後の最後に、空虚なおまじないではなくて、彼女の決意の答えとして語られたのだ。

自分もただ、覚悟をもって頑張りたいと、決意を新たに出来る良いアニメだったと思う。ソシャゲのアニメ化だと思って舐めていたけれども、めちゃくちゃ出来が良くて、なんかすっごく人生について考えさせられた。良く出来過ぎていて、これだけでは書き尽くせないけれども、そろそろ指が疲れてきたのでここまでとしよう。本当に面白った。

次は映画の感想を書きたい。トゥルーマンショーとかタクシードライバーとか。