No (refractory) title : spectrally stable

本、アニメ、映画の感想。時々まじめに物理。ごくたまに日記。

光の速さはどれくらい

某タイトルはカッコいいSFの題名を書き換えたら全然タイトルっぽくなくなってしまった。

ということで、久しぶりにまじめな物理の話をしたいと思います。

今回は、「光の速度がどの観測者に対しても同じである(光速度不変の法則)」から相対性理論を、嘘なく外観を説明したいと思います。

というのも、最近ゴリゴリの文系エリート友人に相対性理論の話を聞かれるという状況に会いまして、その時さらっとわかりやすく説明できなかったんですね。そこでかなり悔しい思いをしたんで、もう一度説明を練り直してメモしておこう、という、まぁ負け惜しみみたいな話です。

それでは本題に。

相対性理論によれば、光の速度はその速度を観測するいかなる観測者においても変わらない。そう言われると、「へぇ、そうなんだ」で済んじゃいそうな話なんですが、これは結構重大なことを言っています。

特に重大な部分は、「速度が観測者によって変わらない」という点。これは何を意味するのか。

速度が観測者によって変わらない、というフレーズには2つの大きな着目点があります。一つは速度の大きさ、つまり「速さ」が変わらないこと。そして二つ目は、速度の「向き」が変わらないこと、つまり「直進する」こと。この二つです。

まず速さに着目してみましょう。速さというのは、距離と時間によって決められるものです。また、車に乗っている時や電車に乗っている時にわかるように、自分がある速度で動いている場合は、見ている物の速度も当然相対的に変わるはずです。そういうことを考えると、日常の感覚で言えば、「速さは変わらない」という約束があきらかに非日常的な条件であることは間違いないです。

まぁ、しかし、今はその条件が正しいとして認めたとしましょう。となるとどうなるか。自分が一定の速度で動いていれば、光の速さは当然変わるが、しかし光の速さが一定であるという条件から、速さは変わることは出来ない。そこで、速さは距離と時間によって決まることを思い出してみる。つまり、距離或いは時間の単位を伸び縮みさせればよい。例えば観測者Aと観測者Bの間で、「Aにおける1㎝がBにおける2㎝になっている」みたいなことが起きる。ここから、「観測者によって、時間或いは長さが変わる(観測者間で時間や長さの単位が異なる)」という、特殊相対論でよく知られた事実が出てくるわけです。

この事実は光の「速さ」が変わらないことに着目して導くことが出来たわけですが、では次に光の運動の「向き」が変わらないこと、つまり、「直進する」ことに着目すると何が導けるのか。

そのためには、ここまでは一定の速さで動いた観測者に対する話だったわけですが、今度は加速している観測者を考えます。

ある一定の方向に加速している観測者、ここでは何らかの意味で垂直方向に加速していて、観測開始時刻には光源を水平方向に見ている、となるような人を考えます。この人を仮に観測者Aと呼びましょう。また、この状況を俯瞰的に見ている観測者がいるとし、これを仮に観測者Bと呼びます。

さて、観測者Bにとっては、光は水平方向にまっすぐ進むはずなので、光が垂直方向に加速する観測者Aから遠ざかっているように見えるはずです。一方で、日常的な感覚では、観測者Aからも光は遠ざかっている、特に孤を描くように遠ざかっているように見えるはずです*1

しかしこの推測は、光の運動の「向き」がどの観測者にとっても変わらないこと、つまりどの観測者にとっても直進していなくてはならない、という最初の約束事から許されないことが分かります。どの観測者においても直進しているように見えなくてはならないことから、観測者Aにとっても、光は直進していくように見えなくてはなりません。ではどうするのか。

簡単な話です。空間を歪めてしまえば良いのです*2。つまり、光が向きを変えない、直進するように見えるよう、観測者Aの周りの空間自体を曲げしまえば良いわけです。まったくもって非日常的ですが、またまた最初の約束を正しいとして考えれば、こうやって空間を曲げざるを得ません。そしてこの事実は直ちに、「観測者を加速させる状況において、常に空間が曲がる」という主張を導きます。観測者を加速させる状況、すなわち「重力」がある状況です*3

このことから、重力の理論に空間の言葉が入らざるを得ないことが分かります。そしてその帰結が、一般相対性理論なわけです。

以上、光速度不変の法則から特殊相対論と一般相対論の二つが導かれることがなんとなくわかってもらえたと思います。 まとめを難しく言えば、「速度という『相対運動』によって変わりえるものが不変であらねばならない、という非日常的約束事から、自然に時間と空間を合わせた、所謂時空間についての議論が出てくる」ということです。

こう考えると、光の速度が観測者によって変わってはならない、この事の帰結がかなり非日常的な主張を導くことが分かったわけですが、それでも物理学者はその非日常的な主張を受け入れて理論化できた、ということに驚嘆するわけです。これはひとえに、実験事実と正しさの積み重ねを連綿と続けた結果ですね。

まぁ、非日常的主張なんていうものを無根拠に信じるのは似非科学だったり宗教だったりするわけで、それを信じるのは別に個人の価値観によるので正しいもくそもないけれども、科学においてはそうはいかない。というか、そんなことをしていても法則を明らかにすることは出来ないわけで、人間的な信条と科学的判断の間にはあまり関係はないというか、切り離してやっていく必要があるっていう話ですね。

ということで、備忘録的に書いておきます。

次は久しぶりにSFの感想とか書きたいな(って言いながらアニメの感想を書くんですけどね...)。

追記(2020/01/11):

上記の導出を考えると、結局こういう理論を考える時は、所謂「観測者と呼ばれる存在」とは違う俯瞰的な視点から議論しなくてはならない、ということが分かる。光速度の不変性を議論するとき、特に直進性を考える時光の軌跡を考える必要があったけれども、それは観測者の立場では見ることは出来ない。俯瞰的な立場に立った時に、光が曲がってしまうという現象を仮定することが出来て、そこから空間の歪曲、という飛び道具を思いつくことが出来る。この時、観測者が何かという話はしないし、俯瞰的な存在の詳細についても議論しない。それでもうまくいくわけで、そんなものは問題ではない。

でもよく考えると、これって、実は量子力学の確率解釈にも言える事ではないだろうか。というのも、相対論で観測者っていう仮想的な存在を仮定して俯瞰的に議論したように、量子力学においても観測者という立場を仮想的に導入して議論しなくてはいけない。相対論では観測者というのは一体何なのか、という話はしないように、ここにおいても観測者、という存在がいかなるものかを議論してはいけないんじゃないか。光の曲がりを想像したように、量子力学においては、確率という現象を想像したんじゃなかろうか。

なんて、ふと思ったけど、じゃあ確率解釈をどう想像するかは決着ついてないわけだし*4、なんとも言えん。

*1:等速度運動を考える限り、光の軌道が曲がることはありません。加速度運動を考えることで初めて曲がった光の軌道が出てくる

*2:特殊相対性理論の方で言ったように、時間の尺度が場所によって違う、といっても言い

*3:光が重力を感じて曲がるわけではない。光の質量は0なので。

*4:多世界解釈とかは光の歪曲と同じような考え方なのかも