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本、アニメ、映画の感想。時々まじめに物理。ごくたまに日記。

PSYCHO-PASS 1st (2012), 2nd (2014), 3rd (2019) を見た

見た、といっても突然全シリーズを見終わったわけではなくて、3期が終わったこのタイミングで一つこれまでのシリーズの立ち位置や考え方を振り返ろう、と思った次第です。 新型コロナウイルスの問題で外にも出られないしね。

御存じの方も多いかもしれないですが、このアニメは第一期が最も面白いとされています。実際、アマゾンプライムの感想やらを見てみると、2期3期に対して不評を語るレヴューが散見されます。もちろん、第1期はPSYCO-PASSという新しい近未来SFアニメとして、マンハント、魅力的なSF的ガシェットを引き連れて華々しく成功しました。じゃあ2期や3期が駄作だったのか?やっぱり虚淵玄のほうが良いのか?と言われると、いや、必ずしもそうとは言い切れないのではないか、と自分は思うわけです。というより1期と2期3期を同じ尺度で比較しようというのが間違っているのではないか。

なぜなら、そもそもジャンルが違うのだから。

1期と2期3期、つまりは虚淵玄脚本シリーズと、熊谷純、冲方丁脚本シリーズでは同じPSYCO-PASSというアニメのタイトルを冠しているにも拘らず、物語の属するジャンルが異なっている。つまり、語られる物、テーマの価値観が違う。しかもそれらの語られた物は、ある意味で対称に位置している。

端的に言えば、「社会や技術を語るSF」なのか「個人を語るミステリ」なのか、です。1期で華々しく打ち出されたPSYCO-PASSは、本質的には近未来SFを意匠にまとった刑事ドラマであって、語られる物は犯人の槙島であり、彼のキャラクター性です。彼と彼を追うドラマの中で、シビュラシステムが導入された社会に対する彼の考え方を知ること。彼との頭脳戦を楽しむこと。それがあのドラマで語られたことです。槙島というキャラクターの魅力、それが1期の中核的存在でシビュラシステムは作劇上の機構に過ぎません。要は「ミステリとして面白い」作品であったのが第1期なのです(いうならアシモフ鋼鉄都市だとかソウヤーのゴールデンフリースとか)。

一方で2期や3期では、キャラクターよりもSF的要素に目を向けていた。つまり、シビュラシステムというSF的機構についての問いかけをテーマとしていた。シビュラシステムという、善悪を判断する機構が存在するとき、それが何を演繹的に導くのか。そのシステムが社会に導入されたとき、社会に何をもたらすのか。そういう問いかけに答えることが、これらのシリーズのテーマだった。具体的に言えば、2期ではシビュラシステムの全能性について、3期ではシビュラシステムというシステムの測る罪とは何か、というSF的考察がそのテーマだった。

1期の時点から、シビュラシステムはかなり曖昧に定義されたシステムです。そもそも善悪の判断とは何なのか。犯罪係数は実際のところ何を測っているのか。この場合の犯罪、つまり法とは何なのか。そういう点はまったく議論されません。というか、その点に踏み込むと滅茶苦茶ややこしい話になってしまうので、1期ではわかりやすい「殺人」という罪を測る機構としてシビュラシステムが、「殺意」という意思の量を測る数値として犯罪係数が導入されています。そういう意味で、1期はややこしい話をしないように面倒な部分は避けているわけです*1

しかしSFとしては、やはり導入されたSF的要素について議論せざるを得ない。だから2期ではその全能性、つまり善悪の判断の完全性について問う、というテーマを採用したのです。さすがシリーズ構成冲方丁残響のテロルの脚本熊谷。シビュラの全能性をどうやって担保しているのか。そこにどういう反証を立てられるのか。そのテーマを問うためにカムイという敵キャラを設定した。3期では「シビュラシステム下での犯罪とは何か」という点に着目している。経済犯罪は犯罪係数で測れるのか。善意の第三者が関与する場合、どうやって罪を測るのか。ここでは1期と違って犯罪係数の定義は「殺意の量」からもう少し広い「罪悪感の度合い」がその定義として採用されていました(とすると免罪体質者なんて幾らでも出来ちゃうけども)。

SF的考察をテーマにする。そこにはマンハントをテーマにするのとは違い、社会やシステムに対する議論が入りざるを得ません。だから、後者よりも前者は込み入った話になってしまう。人を映せばよいマンハントとは異なり、社会という漠然とした存在について語る必要がある。人は一般的にキャラクターに魅力を感じやすく、システムや考察といった過程に対して魅力を感じるのは、まぁ難しいと思います(語り方にもよるとは思いますが)。

以上のように、SFとしてそういう「七面倒臭い話」をきちんとやろうとしたのが2期3期であって、それは1期とはまた違った魅力を生み出しました。そこを面白いと思えるかは人それぞれですが、少なくとも1期を面白いと思った人が期待した「魅力」ではありません。だからそういう意味で、盛り上がりに欠けたのはしょうがないことでしょう。

ということを考えると、そもそも1期と2期3期をを比べる方が悪いのです。別物だから。SFとして見るなら、2期3期のほうがSFらしいアニメだったと言えます。そういう意味で、自分としては2期3期は面白かったです。いや、もちろん作劇がもっとうまくしてほしい、という気持ちはあります。戦闘シーンを入れれば画が締まるわけでもないですし、メンタルトレースという能力にももうちょっと機能的な必要性があって使われてほしかったとか、そういう不満は、まぁあります。つまり、他にもっと一般受けする良い「語り方」があったんじゃないか、と言われると、それは否定できないですね(ていうかそれ話としては面白くないって言ってない?)。

3期以降も新しいテーマを問うPSYCO-PASSが出てほしいですけど、多分難しい気がします。ただ、シビュラシステムというSF要素は、まだいくつも考えられる問題を残してます。

  • そもそも「罪を犯す」という場合の罪はどう定義されるのか
  • 「新しく定義された罪」を犯す傾向はどうやって学習するのか。
  • 傾向による判断は過去の情報によるもので、未来の予測をどの程度信じているのか (現実の内定辞退者予測問題のように。この辺は舞台版で語られてた気がする。)
  • 心理傾向と遵法精神に関連性はあるのか
  • 遵法精神を強要した結果、法のバグに対処できない社会が出来上がらないか
  • 大戦後の日本で有限リソースを最大効率で動かすためのシステムであり、「遊び」が有されないシステムであるシビュラシステムが、いずれ安定化した際に必要となるか

こういう問題について考えれば新しい話を作れるとは思います。それをどういう物語に落とし込むか、どう語るかはかなり難しい問題ですけど。

自分としては、SFとして物語を書く以上、それがなんらかの哲学的問いを含んでいてほしいので、特に法と罪を測るとか、そいういう話を作るのは面白いのでは。

ひとまず書きたいことはかけたので、今回はここまでで。

*1:こう考えると、攻殻機動隊は電脳化というシンプルなSF要素だから演繹しやすかったんでしょうね。シビュラシステムは定義が曖昧過ぎて展開しづらい気がします