No (refractory) title : spectrally stable

本、アニメ、映画の感想。時々まじめに物理。ごくたまに日記。

ナイトクローラー(2014) を見た。

向上心があり、学ぶ姿勢もあり、記憶力もある。そんな能力のある青年が、未曽有の経済危機によって職が得られない時代。生きていくためにビジネスチャンスを探していた彼は、ある日自分の才能を生かせる職を見つける。勤勉で野心的な青年痛快なサクセスストーリー。

しかしそれは、凄惨な事件の様子をニュースに売り捌く、「ナイトクローラー」だった。

と書けば、ロード・オブ・ウォーだったりウルフ・オブ・ウォールストリートだったりといった、資本主義の中で手段を選ばず伸し上がっていく語り尽くされた映画になる。資本主義の中では稼いだものが勝ちだ。やり方の善悪を問うこと自体に意味はなく、稼いだ富の量こそが意味を成す。

だがこの映画を見ていても、そんな「資本主義社会で生き残りをかけ戦う青年」が描かれているようには見えない。主人公は前述の映画に負けず劣らずの非道をするけれども、それでも決して「不謹慎だけども笑えるサクセスストーリー」という映画の様相にはなっていない。例え流れるBGMがいかに盛り上がるものであっても。例え彼が人を殺すことに快感を持っているわけではないにしても。じゃあそれは何が原因なのか。

なぜなら、主人公ルイス・ブルームが無邪気だったから。

彼には罪悪感がない。ここで言う「ない」というのは、決して無視することや正当化によって罪悪を「感じない」という意味ではない。銃を売り歩いたユーリのように自重と冷笑によって目を背けた意味での「罪悪感のなさ」ではないし、金融街のジョーダン・ベルフォートのように資本主義の原理を信奉すること自己正当化した結果での「罪悪感のなさ」ではない。

ルイス・ブルームには、そもそも自分のやっていることの罪の意識がない。彼にとっては法律に抵触するか、あるいは裁判によって裁かれるか、という観点でしか「罪」という概念を測っていない。人が死ぬのを見過ごすのも、人が意図的に死ぬであろうことを行為することも、それ自体に罪の意識はない。なぜなら裁かれないから。だから、彼はそのすべての行為を無邪気に出来てしまう。

そして僕らはその無邪気さに恐怖する。

僕らが日々の生活で無意識に前提とする「相手にも感情がある」という条件が破綻する。必要となれば躊躇うことなく切り捨てられる、という事実に恐怖する。だからこの映画は、単なる資本主義社会の機能的欠点を示す風刺の映画ではなく、スリラーになった。

いくつかのダン・ギルロイ監督のインタビューを見ると、とにかくこの映画に道徳的視点が入らないように兎角気を使って制作していたことが語られている。ハイパー資本主義の世界では、こんな奴が生き残ってしまう、ということに警笛を鳴らそう、というのが彼の意図のようだった。だからBGMは基本的に主人公ルイス・ブルームのサクセスストーリーとしての状況につけていたし(つまりはたから見れば悍ましいことをしているが、彼にとっては成功体験になるシーンであれば明るく盛り上がるBGMが付く)、決して不安を煽るような画作りはしない。彼らが意識したように「単にルイス・ブルームが生きていく様」を映しだすことだけに制限することで、確かに映画自体が道徳的意味を示唆することは全くと言ってなかった。

しかしそれは葛藤という、道徳的視点と行為の合理性の間のジレンマに苦しむ姿を排除し、結果として彼の無邪気さを強調した。

そしてこの無邪気さは、ルイス・ブルームについて2つの性格を表現してしまう。

1つは彼が「人に対する申し訳なさ」を感じないということだ。自分が相手に対してひどいことをしている、という感覚がない。言い換えれば、彼には共感する能力がない。苦しみや悲しみを分かち合うことが出来ない。

2つ目は、よって彼の行動には合理性のみが追及される、ということだ。すべての行為に対して感情論は挟まらない。これは彼が感情を持たないのとは違う。単に、行為を行うか否かの決断を感情論を挟まず合理的に行う、というだけに過ぎない。

だから結果的に、彼が所謂サイコパスのように描写されることになったのだ。

僕らはサイコパスに惹かれる。レクター博士しかり、ジョン・ドゥしかり。しかし彼らの多くは、実際に手を下す殺人鬼だ。この映画を最初に見た時、これは新しいサイコパスの表現を生み出した映画だと思った。そういった殺人鬼として書かれるサイコパスと、ルイス・ブルームを比較することで、サイコパスの本質が見えたような気がしてくる。つまりそれは(よく考えれば当たり前のことだが)「無邪気さ」だ。正当化することもなければ目を逸らすこともなく罪を犯せる無邪気さ。それがサイコパスの本質なのだ。

というように話としても楽しめながら、LAの美しい風景と緊張感のある夜の街並みを交互に映す緩急や、サクセスストーリーとしての展開の緊張感もあって、映画として非常に楽しめた。ジェイク・ジレンホールの演技は、減量した為に爬虫類みたいな見た目となったことも相まってルイス・ブルームの狡猾さを表現していたし、学んだ知識を組み合わせ論理的に相手を言いくるめる時に見せる自信ありげな表情なんかは無邪気さを表していたように思える。うまくいかない状況で感情をあらわにするシーンは、彼が単なる合理的な機械ではなく(たちが悪いことに)「僕らと同じように感情を持つ人間」であることが伝わってきて、それが逆に不気味さを際立たせていた。

ダン・ギルロイ脚本映画って他にはあんまり見たことなかったけれども、こんなに緻密なキャラクタースタディが出来るのなら、また人物を撮る映画を作って欲しいなぁ。「ローマンという名の男 -信念の行方-」とか、面白いのかわからないけど見てみたい。

映画の撮り方とかテクニカルなことを知らないので、どうしても話の内容しか考えることが出来ないけど、もっと映画を楽しむんだから映像から受け取れることも増やしていきたいなと感じた今日この頃でした。