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本、アニメ、映画の感想。時々まじめに物理。ごくたまに日記。

打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?(2017)を見た

アマプラ限定で見られるようになったから、というオタクの風上にも置けない理由で見たわけですが、(見なきゃいいのに)レビューや各所ブログで酷評される姿を見て感想を書きたくなってしまった。いや、擁護したいわけじゃないんですよ。

あらすじ

都会から離れ、風力発電の風車が並ぶ、海辺の長閑な町。そこに住む中学生の島田典道は、同級生で少し大人びた、及川なずなのことが好きだった。夏休み途中の登校日、典道と親友の安曇祐介は掃除当番で向かったプールで、物憂げに腰かけるなずなを見つける。時折、彼女はその日海で拾ったという不思議な模様のガラス球を空にかざして眺めていた。典道の気持ちを知っていた祐介は、掃除を終えたプールで「なずなへの告白」を掛けた競争を提案する。そんなことを知る由もないなずなも競争に参加し、三人は勢いよくプールに飛び込む。競争中なずなに見惚れプールのへりに足をぶつけてしまった典道は、祐介に負けてしまう。水泳部のなずなは当然のように、一着で上がっていた。彼女は典道に勝った祐介に、二人きりで花火大会に行こうと誘った。

しかし花火大会の当日、祐介は友人たちに誘われた「横から花火を見たら平べったく見えるのか、それとも丸く見えるのか」を確かめるための探検を優先してしまう。祐介は典道に、彼の家の病院に足のケガを見せに行くついでに迎えに来ているなずなへの言付けを頼む。典道が病院に向かうと、浴衣姿のなずながなぜかトランクを片手に待っていた。彼女は母の再婚のために町から引っ越すことになっていたが、それに反発して「駆け落ち」するというのだ。その駆け落ち相手としてプールの競争で勝った方を選んだのだと言う。典道は結局、一人で駅へ向かうなずなを見送るしかなかった。しかし彼女は連れ帰りに来た母親に捕まってしまう。典道に助けを求めるなずな。典道はただ、なすすべなく立ち尽くしかなった。彼は思う。

「もしあの時、俺が勝っていれば」

足元には衝撃で開いてしまったトランクから、あの奇妙なガラス玉が転がっていた。やるせない思いを叩きつけるように、彼はそれを力いっぱい投げる。その瞬間、視界はまばゆい光に包まれ、

気付くと彼は、掃除を終えたあのプールで、再び祐介たちと競争していた。

雑感

テーマ

少年目線の一夏の甘酸っぱい思い出、つまりはジュブナイル映画。問題を体当たりで感じていて、それでいてどこか思慮が浅いとも言われがちな無邪気さを抱えながら、しかも自分の気持ちの機微をまだうまく捉え切れておらず、その上で後先考えずに突っ走ってしまう。そういう彼らを主軸にして、そこに時間遡行というギミックを入れた物語。時間遡行と言うと『時をかける少女』とか思い出すかもしれないけれど、あれほど登場人物たちはそこまで「人間臭く」ない(うまい言い回しが思いつかない)。そういう人間臭さよりも、10代前半の「彩度の高さ」というか「見える世界の色彩がまだ鮮やかなころ」が描かれている。まぁ中学生だし、ということもあるけれど、多分これは原作映画の岩井俊二監督の描き方を踏襲しているんじゃないかと思う。岩井俊二監督は『花とアリス殺人事件』しか見てないけど、あの映画をもとに考えると、岩井監督はジュブナイルな映画を作る時はそういう鮮やかさを大事にしている、気がする。

そういう、人間臭さがまだない、世の中がまだ新鮮な色合いを放っているように見える時代の少年を主軸に、原作準拠の『ちょっとミステリアスで大人びた同級生の女の子』にドギマギする童話的な物語、と言うのがこの映画の最も描きたいことで、それが全て。そういう意味で『銀河鉄道の夜』だし(実際そういう風に描こうとしていたようですし)そういう意味で物語世界の法則は主人公たちの内面に依拠しているわけです。つまりは幾原邦彦的世界法則とでも言いましょうか。ただ幾原監督ほど法則が乱れているわけではなく、どちらかというと主人公を通して認識し解釈された世界を描いている。その点で、ちょっと少年時代に「やましい」思いがある人には刺さりそうな感じなんですよね。意識している女の子の行動に、実際は別段なにも意図しているわけではないにも関わらず、思わせぶりな態度を「誤認」してしまってドギマギする。何気ない仕草に艶めかしさを感じちゃたり。みたいなね。これ、大の大人が公言してたら滅茶苦茶キモいので止めましょう。でもそれが美術や画として昇華されると作品になるんだから、創作は偉大です。

だからこの映画をみて「なんかフワフワしている」と感じるのは至極当然だし、「なんかなずなちゃんがちょっとエロく描かれ過ぎ」というのも、まぁ至極当然なわけです。それは意図して描いているわけだし、それはもともとの原作の良いところだと製作者側は捉えているから。それが気に入らないというのであれば、それは趣向が合わんのです。ターゲットはあなた方ではない。きれいで小ざっぱりした話がご所望なら『君の名は。』をご覧になられればいいし、もっと人間臭さを残してほしいなら『ここさけ』でも見て頂ければ結構。でも、そういう「俯瞰的な視点」の物語ではないんですよね。そこで描きたい爽快さや青春を描きたいのではなく、もっと主観的な風景を描きたいわけです。

ということで、少年時代のやましい気持ち、ちょっともどかしかった気持ちを、僕らの夏休み的な風景に落とし込んでちょっと懐かしく思う、というのがこの映画の重たる目標で、それを存分に楽しみましょう、ってことです。高尚さは別のところに求めてください。

表現

コミカルな表現や、印象派的な表現は新房監督節という感じで、外連味に寄せるおかげで幻想的な描写に合っています。元映画を見てないのでわかりませんが、恐らく岩井監督っぽい描写はもしかしたら新房監督の印象を大事にする方向と似たものがあったのかもしれません。前述のとおり色彩設計は彩度が高めな印象。キャラデザは言わずとしれた渡辺明夫で、グリザイアのキャラ原案、アニメ化物語と肉っぽい(肢体って言葉が合う)少女キャラを描かせたら鬼に金棒という感じです。脚本は大根仁。見たことあるのはTRICKとかSCOOPとかしかなく、特徴は不勉強の為存じ上げません...。ただ確かに通常のアニメ映画と違ってセリフが端的で短い感じを受けました。演劇的というか。そういう意味でやっぱり普通のアニメとは違った生っぽい印象を受けた気がします。が、この辺はまったく違いが言語化できないんで、もう少し知りたいところ。主役2名の声は俳優の方がやられていますが、確かに演義はアニメの芝居ではなくどちらかというと演劇の芝居に近い気がします。それが棒っていうのは、まぁ言いたいことはわかるけど、それで作品全体の価値を下げるのは流石に勿体ないと個人的には思います。というか何となく生っぽいんですよね。逆に言えばアニメの芝居ってものすごく記号化されていてるんだなと。この辺良い説明が分からないので所感ですけど、そいういうところが違和感を感じたんだろうなと思いました。

とは言いつつも(ネタバレ)

ただ、そうやって「この映画は少年の世界認識から描く」と言ってしまうと、この映画の終わり方に一定の疑問を生むことも確かだとは思うんです(いや、ケチをつけたいってわけではなく)。まぁ本当にこれは趣味の問題で、好き嫌いの話になるんで「正しい」とか「間違っている」とか言いたいわけじゃないということだけご了承を。

元々この映画は、1993年のフジテレビのオムニバステレビドラマ「if もしも」で放送されたテレビドラマのうちの1話として、そしてそれを再構成し1995年に公開された映画作品「打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?」を原作とした映画。こちらのインタビューで新房監督が言うように*1”今回は原作に寄り添った、完全にそれにプラスアルファした作りかなと思います。原作より先の部分を描いているような感じです。なずなと典道が、電車に乗った後とか。”というわけなので、それを踏まえる必要がある。原作映画を見たことはないですが、あらすじを読むと原作映画の場合はなずなと典道は電車に乗ることはない。そして「2学期に再会しよう」という、叶うことのない約束を口にして終わるわけです。つまり駆け落ちせずに終わる。

で、これを踏まえると、それが意図したものか意図していないものかはさておき、結果的に「なずなの子供らしさと大人らしさ」が描かれたことになっていると思います。これは映画全体にある少年の世界認識から外れた、実世界的な事象が描写されることになります。この少年の世界認識の中で一番この映画に重要なのは「少年の見た女の子(なずな)」だと思うんですよね。「意識している女の子の動作がなんか思わせぶりに見える(この子自分の子と好きかも)」という少女。その子が結局のところ駆け落ちをやめることになる。なずなが典道のことが好きであるかどうかはさておき、これが少年の目線、好意的に捉えられている世界の中でひときわ「理不尽(彼の世界観の中で)」に映るわけです。それが否応なしに、彼の取り巻く実世界を意識させる。だからご都合主義で終わらない。しかもこれが、「大人になれそうでなれない」少女の力不足を描くわけです。いやまぁ、これは視聴者への慰め程度の役割を果たさないと思いますが、そういう「リスキーなことへの躊躇」が描かれることで、視聴者も実世界を思い出せる。だから描かれた物語にリアリティを感じることが出来るんじゃないかと思うのです。

自分はこっちの方の展開が好きです。というのも、そもそもこれは「少年の目線で描かれている世界」なのであるから、実世界の方では、彼の論理とはうまくいかない展開が在りえなくてはいけないはずなんです。それによって少年は、自らの認識と実世界のありようを擦り合わせていくわけで、そこを超法則的なやり方で一方的に少年側の世界認識に寄せてしまうと、これは途端に幼稚に見えてしまう。実際の世の中は思ったようにはいかないし、考えが及ばないこともある。そういう事に自分はリアリティを感じるタイプなので、そういう描写がある方が好きだ、と思います。

ただ、これは初期新海誠的、つまりは「一歩を踏み出すことが出来ずに、感傷的に終わる思い出的」なエンディングともいえるわけで、「じゃあ『君の名は。』は面白くなかったんか?」と言われると、それは苦しい指摘です。一つ弁解させてほしいのは、『君の名は。』の世界の捉え方は俯瞰的なんですよね。なので描かれている世界全体をファンタジーに出来るわけです。そういう意味で、君の名は。の世界法則は「まぁ、そんなもんか」と思うことが出来るのかな、と思います。難しい。うまく言葉に出来ません。

おわりに

どんな映画もそれを製作するだけの時間とお金が掛かっているわけで、そういう意味で何も得られない作品はないと思うわけです。なので、なんとか読解力や理解力、知識の量を増やしていって、作品に対する解像度を上げていきたいなと、改めて思う作品でした。