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本、アニメ、映画の感想。時々まじめに物理。ごくたまに日記。

神様になった日(2020)の感想追記

以下のノートに若干の不満があったのと、これを読んで思ったことがあったので追記。 note.com

このノートは面白くなかった(と本人が感じた)点について分析しているので、まぁこういう書き方になるのだとは思う。 というのは、「面白くなかった」という感想を支持するための根拠を探すことで分析しているから、どこがエンタメとしてだめだったのかとか、アニメとして不十分だったのかという議論になる。 それ自体は感じ方なので善し悪しはないし、その解釈も妥当であるとは思う(実際その通りだと思う指摘だし)。 邪推するに、多分この人がこれまで麻枝准作品を楽しんでいて、それでいて少し失望感を感じたから激励的に、あるいはファンレター的にこれを書いたのかもしれない。

ただ、もちろんこれがこのノートの目的ではないとはいえ、そんなものは見ればわかることで、見た通りのことを書いてもしょうがないんじゃないか。 むしろ、なぜこのような構成になったのか、あるいはなってしまったのかを考える方が、この作品を見て、考えるべきことじゃないだろうか。

このノートが指摘するように、この作品はさもトリックがあるかのように描かれているけれど、どうしてそんなクリフハングを用意しなければならなかったのかを考えるべきだ。 もっと言えば、どうして何も問題を抱えていなさそうなキャラクターを主人公にしたのだろうか。

前にも書いたように、この作品で言いたかったことは全て12話にある。 でも12話の主張を全編通してやろうとすると、ただただ重たい物語になってしまう。 だからまずその点でも、12話まで視聴者を連れていく必要がある。 だからこそのクリフハングだったとは考えられないだろうか。 加えて、じゃあどうして12話までその主張を残しておいたのだろうか。 じゃあなぜ最初から12話の主張を提示しなかったのだろうか。 なぜ前半に少年少女の青春が描かれたのか。

思うに麻枝准は、世界に対する無邪気な希望を信じられなくなってしまったのだと思う。 世界には希望がある。 世界は奇跡があって、困難の先にはきっと、たとえそれが大きなものではなくても、ほんの小さな、それでも確かな幸せを奇跡が運んできてくれるんじゃないか。 そーゆう希望を、きっと以前の麻枝准は信じていたのだと思う。

でも、この作品では違う。 世界にはそんな都合のいい奇跡なんてなく、そんな無邪気な希望なんて望めないんだと、彼は気付いてしまったんじゃないだろうか。 どんな困難の先にも、きっと奇跡の待つ未来があるんだと、そういう無邪気な望みを持てなくなってしまったんじゃないだろうか。 だからこの物語の根底には、ずっと暗く、ずっと苦しい思いが潜んでいる。 きっと以前の彼なら、12話で佐藤ひなはきっとしゃべられるようになり、歩けるようになり、そして記憶はなくしても未来を作っていこう、そういう話になったんだと思う(Charlotteみたいに)。

でもこの作品では違う。 ひなはすべてを奪われ、そしてそれと一緒に生きていくことを選ぶ。 何かが良くなることはなくて、状態だけで言えば、ただ振出しに戻っただけ。 病は治癒することなく、それと共に歩いていくだけ。 そんな話を最初からやってしまえば、この物語の前半戦はなかったことになってしまうし、障害と戦っていく、なんて現実的な物語が描かれるだけだ。

じゃぁ、なぜあんな青春を描こうとしたのだろうか。 どうして平凡で凡庸で、ただ無力な少年を主人公にしたのだろうか。

きっと麻枝准は、世界に対する無邪気な希望ではなくて、人それ自身に対する無邪気な希望を信じることにしたんじゃないだろうか。

少年たちはみんな無邪気だ。 例え病があろうと、障害があろうと、ただそれを受け入れていく。 ただいっしょにいるだけで良い、ただいっしょに歩めるだけで良い。 そんな理由で、それが彼らの気持ちで、それは本当に無邪気な、ただ彼女といたいという気持ちだけだ。 それがきっと彼女を救うと信じているし、それが良いことだと信じてる。 それは病や障害がなくなることではない。 でもその気持ちが、その行動が、彼女の人生をより多彩にすることが良いことだと信じている。 そんな無邪気な気持ちを、それを苦と思わない姿勢を、そんな希望を信じることにしたんじゃないか。

この物語の結末を少年少女たちの論理で描いていることだって、その表れだ。 彼らの行動を否定する立場の代弁者として、ひなの父親が登場する。 ひなの父親は言わば、世の中一般が持つ平凡な、それでいてもっともモノクロな現実主義の具現化だ。 関わることを避け、最大多数の最大幸福を実現する、ただただ現実的な視点だ。

でも主人公たちはそれを否定し、そして同時に麻枝准はそれを拒否して、ともに生きることを選らぶ。 それを後押しするのは、彼らが過ごした何でもない一夏の思い出だ。 思い出が生きることを支えてくれる。 その気持ちを支えてくれる。 世界への希望の代わりに、そんな無邪気な論理を、麻枝准は信じることにしたんじゃないか。

それが良いことかどうか、それが正しいことかどうかなんて、僕にはわからない。 前にも書いたように、現実的には、その行動で苦しむ人もいるだろうし追い詰められる人もいるだろう。 だから麻枝准が示した選択が本当に正しいかと言われると、手放しに肯定することは出来ない。 でも、そういう希望を無邪気に信じられない社会も、それはそれで不幸だ。 自分は社会のお荷物だ、誰かの負担になっている。 そういう風に生かしていく社会が正しくないことだけは確かだ。 そんな彼らを見て見ぬふりをして無かったことにする社会も、ただただ悲しいだけだ(相模原障害者施設殺傷事件を思い出す)。 その微妙で、繊細で、どうしようもない問題を、僕らは目を背けずに考えなくちゃいけない。 この物語には、そんなメッセージが添えられているんだと思う。

いみじくも感想を書く者であるならば、あまつさえその不満を書くのであるならば、まずもってそれがどうして起きたのか、そしてそれが何の帰結なのかをくみ取るべきだ。 そうでなければ単なるクレームだし、作品に情熱を注ぐクリエーターに対する裏切りじゃないか(たとえクレームの後に「こいつはまだやれる」とか書こうとも)。 くみ取って表現するのが感想文を書く者、視聴者のやるべきことじゃなかろうか。 もっと言えば、感想書きなんていうのは勝手な解釈を『書かせてもらっている』のだから、まずもって製作者たるクリエーターに対するリスペクトがあってしかるべきじゃなかろうか。 そういう気概を持って、少なくとも自分においては、作品に向かっていきたいと思う。

とまぁそんなわけで、いろんな思いを湧き上がらせてくれる良いノートだった。

(自分ももっと作品からくみ取れるようになって、クリエーターの想いや意図を理解し解釈できるようになりたい。ていうか、僕自身もどこが原点回帰だったのかわからんかったんだよなぁ......どういうところが原点回帰だったんだろ。調べよう)