No (refractory) title : spectrally stable

本、アニメ、映画の感想。時々まじめに物理。ごくたまに日記。

Look-back on youth #1

つまりはフェイスブックのサルベージ

Facebook に書いた記事をサルベージできることが分かった。ということで、いわゆる「過去絵再掲」みたいな感じで。

いや、就職したらもう何も考える時間ないというか、そんなことを考える前に「定時に帰らせてくれ」という感じで、とはいえ働きながら「社会というシステムのなんとファジーでエラーコレクションなことよ」と思ったり、そんなことを書きたかったり書きたくなかったり……。そんなこんなしてたらもう最後の記事から3か月もたってる。コワイ。光陰矢の如し。

という感じで、まずはリハビリということで。ひとまず過去を振り返ってみたり。今回は5年も前の記事。それでいいのか。

心の片隅で「過去を振り返るなんて、それっておじs(ry)」っていう邪念が湧いてくる。隙を見せるからだぞ。

Track 001 (2016/03)

最近自分の書いた文章は面白くない。

きっとこれはまじめなことを言おう、何か意味あることを言おう、読んでもらっているのに、時間を割いてもらっているのに、その時間に見合う対価を払おうと、無理に気取っているからなのかもしれないと、ふと思った。そういう気取った、自分は何か有意義なことを書こうとしてる、有意義なことを言おうとしているというその厚かましさが、なんとなく伝わってくるようで、すこしイライラしてくる。

そもそも「ですます」調の書き方が、語りかけている風を装いながら、その実、身勝手な自論を体よく押し付けているだけな気がして、鼻につく。だけど、こう言ったなれなれしい口調もなんだか気取っているようで、やはりイライラするような気もするけど、これは、フランクな書き方が、きっとライムギ畑で捕まえてとか、そんな反抗青春のシニカルな雰囲気の象徴だという自分の偏見があるからかもしれない。

しかしどうしたって、品よく書く、なんてことはできないのだろうと思う。そもそも文章を書くこと自体、結局何かを伝えたいからであって、伝え合う時だって、しゃべりながら聞くことはないし、しゃべる時は常に一方向なのだから、そもそも本質的に厚かましいんじゃないか、という気もしてくる。

だから黙っていればいい、と言うわけでもなくて、そういう物をやり取りするときは、やはり何となく押し付けあうような雰囲気にならざるを得ない、だから、そもそも厚かましいということを念頭に置いて、別の方法で厚かましさを薄めるほかない。

なにより、こうしてまずこの記事に対する言い訳を滔々と述べてから、本題に入るところが、まったくもって、厚かましい。

ちょうど4年前か、あるいは3年前かのこの時期に、桜の木の下にはみたいな話の書き物をFacebookに挙げたことを、数日前にふと思い出した。と言うのも、何の因果か、おなじこんな時期に、卒業式が終わった次の日、静岡に帰る新幹線の中で、伊藤計画の虐殺器官を読み終えた時、こんなことを思ったからだ。

私たちは死体の山の上を歩いてる。

春休み中にお墓参りに行ったからか、伊藤計画の虐殺器官を読んだから、それとも新聞に自殺の記事が載っていたからか知らないけれど、ふとそんなことを思った。

たくさんの命の上に生きている、なんて言ったら聞こえはいいかもしれないけど、でもやっぱり、死体の山の上を歩いている、と言ったほうが、(今の自分にとっては)より現実的な気がする。歩けば歩くほどに、足元に転がる、踏みつけた骸の折れる音が聞こえるようだ、なんて言ったら、きっとかなり不謹慎だと思う。命の上に生きている、と言った方が、もっと友愛的な気がする。でも、命の上、なんて言い方は、ひどく霊魂的で、生を前提に置いた言い方だという気がするし、周りにあるのは、どちらかと言いうと、死体のほうだ。

もっと言うと、日本だったら骨のほうだ。

なんで、死体の上、なんて言い方が良いと思うのだろうかと考えてみると、それはきっと、命なんて言うと、その人を知っているかのように聞こえるからだ。生きる上では、というか、社会で生きている上では、今日も埋まっていく人々のことなんて、まったくもって知る由もない。誰だろうと知らずに、でも、この社会を回すために、あるいは回るために、知らないうちに埋まっていく。そんな命を僕らは命だと感じているのかと言えば、それはきっと嘘だろうなんて、ひねくれて思う。あるのは死体という結果だけで、還元された物質だけで、命と言うような肉のある物にするには、あまりにも情報量が足りなすぎる。確かに、近しい人は知っているけれど、それに値するほどには、説明がなさすぎるのだ。

でもそれだけではなくて、もう1つは、僕らの足元にあるのは、決して何か可能性のあるものではなくて、すでに終わったことが埋まっている。彼らは常に過去であって、彼らはどうしたって何もできない。そういうなれの果て、みたいなニュアンスを、やっぱり死体というものは持っている気がする。彼らには何もできない。何かできるのは僕ら命あるものであって、彼らはそこにあるだけしかない。顎関節が動いてしゃべりだすわけでもなければ、眼孔から睨み付けてくることもない。手を離せば地面に落ちるし、運んでやらなけばどこにも行けない。そういうそこにあるだけ、という思いを表すのに、死体と言う表現はピッタリだという気がする。

僕らは、そんな死体の上を歩ているのだと、自覚しなければならないと思う。

なぜなら、当たり前のことだけれども、僕らの生は、まぎれもなく彼らのおかげだからだ。科学をやっている人間だったら、あるいは学問をやっている人間だったら、自分の周りには、特に医学や技術の点で、そういうことを感じるかもしれない。別にそうでなくても、僕らの肉体それ自体からも、そもそも親がいなければ生まれもしないわけで、それを感じるわかりやすい例だと思う。それだけではなくて、社会のシステムにも、それが見える。そもそも、歴史がそれを示唆してる。必要な死なんて言い方をする気はないけれど、無駄な死なんてものはないと言える気がする。

死体の上にまた自分の死体を積み上げて、そうしてまた命が生きていく。誰にも目的地のわからない、骸のバトンのリレーだと思う。気取った言い方で嫌だけど、死体の階段と言うよりは、ましな表現だと思ってる。死体の階段の方が、個人的には好きだけど。(誰か良い表現があったら教えてほしい。)

そして、いつか自分も、その上に積み上げられる。そしていつか、叶うことなら、みんなとは言わないけれど、人々はその死体の上に、新しい命を置こうと思っている。死体の上に立つ意味が解らないのに、また、その死体に積み上げられる命を生み出すのかと思う。みんなその意味を深くは考えないけれど、考えるほどに、考えることに意味がないのだと思えてくる。一体何のために積み上げられるのか、それをずっと考えてきたけれど、いまだに満足な解答は得られない。宗教にでも入れば少しはましだろうけど、あいにく個人的に最も正しい前提Aは正しくないと思っているので、助けになるとは思えない。積み上げられることに意味があるのかは、恐らく永遠に答えられない気がする。これが理性の限界で、あとは本能に任せれば良いという気もする。要は、難しく考えすぎなのだ。理由を求めるには、あまりにも頭が悪すぎる。

だから、今日はまた寝て、明日も起きて、そして1日を迎えようと思う。死体の上に寝て、死体の上に起き上がり、またその上を歩く。手にはやはり、骸のバトンが握られている。髑髏は何もしゃべらないけれど、語り掛けてくる気がする。何を言っているかは知らないけれど、激励してくれていることを切に願いたい。

なにより、忘れてはいけないのは、死体の山の上には、別に自分一人が、立って歩いているわけではないという、このことだと思うのだ。

乱筆悪文注意