No (refractory) title : spectrally stable

本、アニメ、映画の感想。時々まじめに物理。ごくたまに日記。

ブラックホークダウン (2001) を見た

言わずと知れた名作。苛烈な戦闘シーンとその中でもがく兵士たちの織り成すドラマ。でもやっぱり最初に目が行くのは、きっと印象的な色彩設計と、それが織りなすモガディシュの戦闘への、そしてソマリアへの国連軍の介入への、実は冷笑的な目線な気がする。 ふと気になって調べてたらものすごく詳しい解説があったので、本映画全般について知りたい方は以下を参照してください。唸りながら読んだ。

http://lindenhof.sakura.ne.jp/tebiki10n.html

あらすじ

1993年、泥沼化したソマリア内戦の調停のため派遣されたアメリカを中心とする国連平和維持軍は、混迷を極めるソマリア国内各勢力の非協力、政府機能の低下による治安の悪化によって、思うように人道支援活動を進められていなかった。多民族へ仲介の元、一応の停戦合意を取り付けることに成功したが、武装解除に差し掛かり反政府勢力統一ソマリ会議のアイディード将軍は国連に宣戦布告。国連パキスタン軍への攻撃とそれに伴い兵士24名が殺害された。国連は強硬姿勢を余儀なくされ、兵員増強による実行力を伴う平和活動と国家建設を目的とする派遣、これに伴うアイディード将軍拘束を目的とする第2次国連ソマリア活動を開始した。

同年10月、一向に好転しない事態に焦り始めたアメリカ軍は、現地情報に基づき、アイディード将軍派幹部である外務大臣オマール・サラッド・エルミンと最高政治顧問モハメッド・ハッサン・エワレ2名の拘束作戦を極秘に計画する。第1特殊作戦部隊分遣隊・通称デルタと陸軍レンジャーにより編成された部隊が、ヘリ編隊で空から強襲し2名を拘束、ハンヴィーにより対象を陸路で護送するこの作戦は、当初30分程度で終わると予想されていた。

MH-60 ブラックホークが、撃墜されるまでは。

表現

この映画の最も見るべき表現は何だろうか。火薬マシマシのエキストラをこれでもかとぶち込んだド迫力の戦闘シーン?。その緊迫感を損なうことなくドラマに持っていく印象的な陰影による画作り?これ、鋼の錬金術師のあとがきで荒川先生がおっしゃっていたように、ベタが入ると画面が締まって見えるってやつです(とはいえ、顔半分に影が落ちてダサくないのは、欧米人の彫りの深さのおかげではなかろうか。東欧人にも出来るのだろうか)。作りこまれた小道具とセットによるディティールを重ねた画作り?

でも、おそらくはその色彩設計じゃなかろうか。

基地を覆う彩度の低い青。砂の街を彩るアンバー。ハンヴィーの車内に広がる、傷口から湧き出る、止め処ない赤。

小道具からセット、背景の街までを緻密に作り出し、ドキュメンタリックなカメラワークで臨場感を持った戦闘シーン。そのある種のリアリズムに対して、色彩設計は逆に印象派だ。

薄い青。死体の蒼白さのようなその青は、非現実感を醸し出す。映画冒頭で映し出される飢餓の風景。作戦前のアメリカ軍基地。作戦へ向かうヘリから見下ろす浜辺。司令室画面に映し出される哨戒機からの映像。そして遺体安置室。青のフィルターを通すそれらの風景は、常に伴った非現実感が描かれている。飢餓で死に絶え野ざらしにされ打ち捨てられる風景。祖国のために戦うでもなく、平和維持活動として派遣され、どこか他人事のような基地の空気。負傷者も出さずに30分で片付くと、楽観視が立ち込める作戦前。撃ち落されるブラックホークを捉えた哨戒機の映像。そして、その作戦で戦死した、多くのアメリカ兵が安置される格納庫。そこにはどこか虚ろな、非現実感が漂っていた。

それに対比するように、ソマリアの街にはアンバーが彩られる。その彩度の高さは、彼らの生きる現実感だ。戦闘が進むごとに、状況が悪化するごとに、その彩度は指令室を、そしてアメリカ軍基地を覆っていく。仲間の血で塗られたハンヴィーが基地に戻るとき、その赤は現実を引き連れてくる。これが現実なのだと。これが突き付けられた「異国の地」なのだと。

それらの色彩設計が、単なるドキュメンタリズムな戦争映画としてだけではなく、映像作品の美しさも兼ね備えた、耽美な映画に仕立て上げている。

雑感(ネタバレ)

青のフィルターを通して映し出される世界。それは確かに非現実感を伴っているけれど、その非現実感は何だろうと考えてみる。そして思うのは、というか例のごとく伊藤計劃の影響でもあると思うけど、きっとその非現実感は、あの青を通して映し出された世界が、彼岸だからだと思う。

要はあれは、死相なのだ。

飢餓で死に絶え打ち捨てられた死体を、作戦に向かう前の基地を、仲間の安置された格納庫を覆う青。それらは皆、彼岸に向かう、或いは彼岸に至った、死の風景だ。

映画の終盤、命からがらパキスタン・スタジアムに逃げ帰る兵士たちを、青い霧が覆いつくす。彼らは朦朧としながら走り続け、気が付くと、その道の両端に、ソマリア人たちが列をなして埋め尽くしている。彼らは手を振り歓声を上げ、笑みを湛えている。いつの間にか子供たちが足元を掛けている。ソマリアの子供たちは、まるで戯れるように、彼らを見上げている。

彼らはきっと死体だ。名前のない、打ち捨てられた死体だ。

映画の中で詳細に語られるアメリカ兵と、その死。彼らが死ぬとき、彼らはきっと名前を呼ばれる。衛生兵に処置されながら、銃創を圧迫しながら、彼らは戦友に名前を呼ばれ、そして死ぬ。それに対比するように、最後に描かれたあの大衆は、名前の呼ばれることのない死だ。彼らは機関銃になぎ倒され、手榴弾に吹き飛ばされ、小銃で撃ち殺されたソマリア人だ。

そして、スタジアムへ逃げ帰る兵士を囲む、名もなき死体の彼らが最後に湛える笑みは、僕らがただ野次馬としてランナーを囲むときのように、ただただ他人事だ。

その他人事さが、逆に言えばその冷笑的な目線が、ソマリアでのアメリカの立場なのだ。

アメリカを中心とする国連は、ソマリアのために介入した。しかしそれは、誰が望んだことなのだろう。映画冒頭、拉致されたソマリア人実業家が司令官にこう告げる。

「米国は来るべきではなかった。これは内戦だ。我々の戦争だ。あなた方には関係ない」

勝手に乗り込み、勝手に戦い、そして勝手に死んでいく。そんな彼らが命からがら逃げる様を、死者の参列はただ他人事のように笑う。それはアメリカの戦いが、ひいてはこの介入が、そもそも他人事だったのだから。

それでも兵士たちは戦う。映画の最後、仲間の残る戦場に戻ろうとするデルタの軍曹ノーマン"フート"ギブソンはこう言う。

「故郷に帰ると、みながこう聞く。”フート、なぜ戦うんだい”。俺は何も答えない。なぜなら連中にはわからないからさ。」

「俺たちは仲間のために戦うんだ。それだけさ」

終わりに

グリーンゾーンやらハートロッカーやらを見てからこの映画を見たもんだから、「アメリカいっつも『俺たちは何のために戦っているんだ』『彼らに任せるべきだ』みたいなこと言ってんな」という気持ちになってしまった。まぁでも、彼らが出張るから成り立つ世界情勢というのもあるだろうし、そのすべてが悪かと言われると、閉口するしかないんですが。

というようなことも考えつつも、むしろその映像美に圧倒されたこの作品。名作と名高いのは確かでした。ぜひ1度ご覧になってみてくださいな。