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オタクの日々の雑感、本、アニメ、映画の感想。

インターステラー(2014) を見た

プランクダイブ」と「あなたの人生の物語」と「2001年宇宙の旅」を足して3で割って掻き混ぜた、っていう映画 (ただし3作品は小説版を指す)。

アマプラの感想にいろいろ賛否あるけれども、じゃあなんでああいう感想群になってしまったのか、少し考えて、多分ざっくりして言えるのは「冒頭から前半はかなりハードSF臭がするのに、最後の展開で「何故そこで愛ッ!?」ってなったから」ではないかと。

この映画の冒頭は、インタビュー風番組(それこそヒストリーチャンネルにありがちなその時代を経験した人へのインタビューみたいな) の挿入から始まる。そこから回想的に、気候変動し厳しい環境となった未来の地球を描写していく。人口減少が進み、未知の病原菌が蔓延して作物が刻々と絶滅していき、もはや人類がこれ以上住み続けるのは困難となった地球。人々は科学技術を発展させることよりも、農業従事者を増やし喫緊の課題である食糧問題を何とかする方が賢明だ考えていて、そんなわけだから、アポロが月に行ったことは嘘だったと教えていたり、大学に行くよりも農家になれと諭す(エスプリ効いている)。

主人公のクーパーはそんな時代の元宇宙飛行士。ある日娘のマーフの部屋で起きるポルターガイストが重力を使った二進数やモールス信号の暗号だということに気が付く。それはとある地点を指していた...。

という重厚なハードSF臭を漂わせながらこの映画は始まる。いや勿論、「え、重力を使ってそんなこと出来るわけないでしょ」とか思ったりして、「いやいや、なんか落ち着けてくれるはず、何せクリストファー・ノーランやで」とか期待して先を見ていく。NASA理論物理学者が出てきたり、ブラックホールでフライバイするから時間が加速してしまうとかいう、ちょーニッチな科学描写でSFオタク心をめちゃくちゃくすぐられながら「うひょー!これ「トップをねらえ!」で見たことあるやつだ!」とか適当にはしゃいで見てしまう(若さゆえのなんとやら)。R2D2C3POを足して二で割ったHAL9000的キャラクターたちが愛らしくてキュンキュンしたり、ワームホールを抜けた先の星々の探索では、心を病んだ先駆者たちとの鬼気迫る応酬とかでハラハラドキドキ、さぁどうやって落ちをつけるんだ?!

と思って見ると、なんと「俺たちが時間を超える事だったんだよ、そう、愛さ!」みたいな感じでぶっ飛んだ展開を最後の20分近くでかましてくる。そう、冒頭の重力は主人公たちが時間を超えて送ったメッセージだったんだ!

ということを、流石はクリストファー・ノーラン、場面展開や画作りの巧みさで迫るように映し出している。

そう、ここで冒頭の感想に行くわけです、「何故そこで愛ッ!?」。

重厚なハードSF的な書き込みとシナリオ展開でリアリティを醸し出しているところで、最後の最後にご都合主義的とも見える展開で物語を決着させてしまう。ここに見ている人たちの期待を悪い意味で裏切ってしまったんではないかと。最後の展開で感動できる人は前半の描写が緻密過ぎて退屈な気もするし、前半の描写が心地よかった人は、最後の展開に納得がいかなくなってしまったのではないかと。

でもよく思い出せば、例えば「幼年期の終わり」だとか「2001年宇宙の旅」とか、あの昔の長編SFというのは、宇宙に対する壮大な「何か未知ですごいことが起きるのではないか」っていう、憧れと言うか夢想があったような気がするのです。宇宙には何か不思議ですごいことが隠れていて、宇宙を旅すればそれらに出会えるという、漠然とした期待と言うか無邪気な憧れと言うか。

そういう、「ちょっと昔の宇宙長編SF」の映画だと思うと、これはそういう映画たちの正当な後継じゃなかろうか。攻殻機動隊ブレードランナーみたいな太陽系内SFでは、大スペクタクルよりも地味である意味では身近な(現実と地続きなというか)未来像と、退廃的な世界で問われる「人間とは何か」っていう話題が中心的だけれども、そういうちょっと冷めたSFでは味わえないセンスオブワンダーが、この映画にはあるような気がする。だからかわからないけれども、この映画を見た後、なんとなくハイペリオンシリーズを読み直したくなった。

無邪気に宇宙に思いを馳せることを忘れてしまった、「アポロが月に行ったこと」を嘘にしてしまう未来像の現実で良いのだろうかと、そう思わざるを得ない、良い映画だったと思う。

イヴの時間 を見た

「未来、たぶん日本。“ロボット”が実用化されて久しく、“人間型ロボット”(アンドロイド)が実用化されて間もない時代。」

という一行からこの映画は始まる。アンドロイドが普及し、日常に溶け込む世界。その中で主人公の向坂リクオは、自身のアンドロイドであるサミィが時折「寄り道」をして帰ってくることを知る。ログを追って辿りついた場所は、変わったルールのある喫茶店イヴの時間」だった。

「当店内では、人間とロボットの区別をしません ご来店の皆さまもご協力ください。ルールを守って楽しいひと時を。」

茶店で出会う「人々」との交流を通して、ロボットと人間の関係、そして「心」を繋ぐ物語が描かれていく。

最初は、「きれいな背景のわりに会話のテンポが不自然に速いし、画面も揺らし過ぎで、どうなんだろ」って思いながら見てました、正直言うと。ただ見ているうちに(慣れてくるのか)気にならなくなっていき、この物語が始終描こうとしてるある種のやさしさを感じ始めて、最後はなんとも言えない感動が広がった。全く持ってロマンチックな物語で、山もなければサスペンスもない、ある種見てて退屈とさえ言える展開でも、その醸し出すやさしさは物語として確かに描かれていたと思う。

ただこうやって受けた感動をつらつらと書いているだけでは、SFオタクとしてなんか悔しいので、このイヴの時間における「アンドロイド」について考えてみたい。

物語冒頭にことさら強調されるように、この世界では「ロボット工学三原則」がロボットの基本的な性質を表している。あまりにも有名なこのアイザック・アシモフの三原則を、この物語では面白い解釈をしている。アシモフにおけるロボット工学三原則は、ロボットの機能的制限を与えるための制約である。物語上ではこの制約を緩くするかきつくするかで目指した機能を持つロボットを動かす、という話があったりする。というように、アシモフにおけるロボット工学三原則は制約条件であり、それはロボットの暴走を防ぐため以上のものではない。一方、イヴの時間においては、ロボット工学三原則は「ロボットの定義」として用いられている。逆に言えば、それさえ満たされていれば彼らは「アンドロイド」であり、人間との違いは、ただこの三原則が守られているか否かで決まる。よってアンドロイドたちは、いわゆる「心」を持ちもするし、「個性」を持つことができる。

なので、この映画を見て「こんなのはロボットじゃない、人間だ。人間にロボットという名前と機能を与えただけだ」と解釈して、この映画はSFじゃない、と思うのも無理はない。そういう意味では、ハードSFとしてのロボットSFではない。ではハードSFという視点を捨てて、この映画を見てみると、この映画は「絶対的に違う他者との関わり」を描いた映画だ、と見えてくる(気がする)。ロボット達はロボット工学三原則という点において、確実に人間とは違うのである。一見すると人間と違いはなく、ロボットであるけれども、見分けがつかない。見分けはつくロボットであるけれども、「個性」があって「心」がある。そういう「全然違う」けれども、でも共通部分があって、それを通わせることが出来る。これは果たして、(イブの時間の世界の意味での)ロボットと人間の関係だけに当てはまるだろうか。

この関係性は、本当は「普通」の人間の関係性にも言える事ではないだろうか。一見して同じ、見た目は違う、そういう異なった他者との交流、それを描いているのではないだろうか。

そういう視点で見ると、このイブの時間という物語は、「他者との交流、関係性の構築に何が大事なのか」ということを描いているのではないだろうか。そしてその答えは「変わらず尊重する」ことなのだと、この物語は描いている。冒頭の「ロボットと人を区別しない」というのは、決して人間だと思って話す、ということではなくて、ロボットであれば制約があり、人間であればロボットではない、という「他者は絶対的に違い、その違いに配慮して、尊重して接する、分かり合う」ということではないだろうか。物語の中で、アンドロイドの少女がこんなことを言う。「見た目がそっくりでも中身はぜんぜん違う。似てるけど、ぜんぜん違うのよね。あなたは私をどう思ってるの?って、色々話してもっとわかってあげたい。だって家族だから。」そういう意味でこの物語は優しさに満ちていて、そして大切なことを教えてくれている気がする。

SFとして、ロボットものとしての完成度はどうかと言われれば、それは期待に応えられないけれども、楽観的でロマンチックな、それでも切実な願いのようなものがこもったこの甘くて優しい物語は、一度は見てみる価値があるのではないだろうか。特に、多様性の重要性が見直されている本日において。

2019/04/22 追記 下の感想を読み、自分の感想が小学生並だと気が付いて恥ずかしさで悶えてる。もっと勉強しなきゃ...。

小ミハイェル 無駄に長い『イヴの時間』の感想 memo.clockmilk.org

いま集合的無意識を、を読む

日曜日は神田の本屋に入り浸る。ただし天気の良い日に限る。

30分かけて徒歩で向かい、2時間ほど本屋を歩き回る。運動不足解消のためである。平日の大半は、椅子に座って机に向かってキーボードを叩いている。そうもしていれば腹回りが気になってくるわけで、ずぼらな自分も流石に運動しようという気持ちになってくる。しかし激しい運動は遠慮したいし、特に汗をかくやつは心底嫌だ。健康への配慮と自身の怠惰を天秤にかけて落ち着いたのが、土曜の水泳と日曜の徒歩、ということである。

腹は減ってきたが、がっつり食べようという気分でもない。サンドイッチを食べる15分のために喫茶店に入るのも気が引けた。喫茶店はくつろぐ時間代をあらかじめ料金に織り込んでいる。手ぶらで入ってさっさと出るのは損という気がした。

そんなわけだから、ちょうど気になっていたこの本を買い、ドトールのサンドイッチを頼んだ。

神林長平の短編集で、‘‘仮想の‘’伊藤計劃と語り合う表題作を含め6篇が収められている。一番好きなのは「切り落とし」だけれども、今回はこの表題作について思ったことを書きたい。

この短編では作者神林長平が、‘’仮想の‘‘伊藤計劃との対話というフィクションの形式を通して、彼の作品群の考察と自身の感想を述べている。ある日主人公である作者が「つぶやき」(これはtwitterのこと)を眺めていると、不可解な現象とともに伊藤計劃と名乗る文字列が現れる、というところから始まる。そこから主人公=作者による伊藤計劃作品群(これはハーモニーと虐殺器官を指す)から解釈した伊藤計劃の思想と、主人公=作者のそれに対する感想を述べている。

僕自身は伊藤計劃という人物も神林長平という人物も詳しくは知らない。両者の小説をすべて読んでいるわけでも、それらを深く読解しようとしたこともない。だからここで彼らの思想や考え方を解説することもしないし、この話の中で述べられていることが正しいかどうかも議論しない。自分が得たのは感想でしかなく、誤解や偏見の混じった解釈でしかないからだ。しかしせっかく読んだので、読後感想をまとめておきたいと思う。 (以下、本作品に対する誤解が含まれる)

まずは神林長平と、彼による伊藤計劃の解釈の一部を読む。

神林長平の考える「意識」を次の文から考える。

なぜなら、概念などというのは人間が考える<フィクション>に過ぎないからだ。<リアルな世界>をどう解釈するかという<物語>だ。それを生んでいるのが、まさしくぼくの考える<意識>だ

その先は少しよくわからなかったが、自分は次のように解釈した。 <わたし>とは、世界を解釈する機能であり、故に意識から生じる<フィクション>の一つである。物質的な、或いは物理的な世界から感覚器官を通じて得られた情報を、選択的に処理し解釈するための機能、それが<わたし>である*1。情報を落として解釈された’’それ’’はすでに現実の物質世界の(或いは生の)データを再構成することは出来ず、その意味で<リアル>に対する<フィクション>と言えるのではないだろうか*2

そして彼は、この<フィクション>を構成する機能とは、<想像>する機能と同じであると主張する。共感という機能は相手の気持ちを想像する機能だ*3。一方で、<意識>を失った存在でも、<知能>は持っているということを、そして<意識>は<知能>を制御する機能であると、神林長平は指摘する。

人間のフィクション=意識が対処、対抗している圧倒的なリアルの力とは、人が高度に発達させてきた<知能>だよ。

自分は次のように解釈する。<知能>とは、<意識>が現実を解釈するのに対し、現実そのものを操作するために生まれてきたものであると、神林長平は考えていたのではないだろうか。そして<知能>とは合理性であり、計算である。<意識>は共感を生み、合理性のみの判断を制御している、と主張している、と思う。

上記の<想像>と<知能>について個人的意見を。<想像>については共感する部分もあったけれども、<知能>については、思うところがある。

まず、<想像>について。彼は想像のフィクションと目の前のフィクションは本質的に同じ、ということを述べている気がする。でも確かに、なんで僕らは物語を読んだり見たりして納得感を得るのだろうか。そのキャラクターのリアリティというか、”存在している感”というものを感じるのだろうか。生きているか否かにかかわらず、僕らはその現実感を感じていて、それは意識される(すなわち解釈される)現実と想像は本質的に同じだからじゃないだろうか*4

<知能>についてはどうだろうか。<知能>は合理性の表れかもしれないが、<意識>=解釈する機能に対する補集合として定義される<知能>では、過去の物理法則は発見できなかったのではないだろうか。物理法則というのは、合理性の表れではない。それは現実に対する解釈だと、僕は思う。現実に存在する法則に、エネルギーやエントロピーと言った解釈をつけることで、物理学は発展してきたのではないだろうか。その解釈はその時点での人類の観測技術を超えて法則性を導き出し、当たらしい理論の存在を予測してきた。解釈がない物理学は、今でいう機械学習のように、観測技術の向上によってのみその法則性が見つけ出される。素粒子理論における「理論が先行して予想し、実験がそれに追従する」という形の発展はなかっただろう、と思う。つまり、そういう意味では一般相対性理論も生まれない。

こう書いてきて、なんとなくハーモニーが理解できた気がする。<知能>という合理性が生み出すプロトコルによって、合理的にコミュニケーションのとれた組織的な生命になる。それがハーモニーの最後なんだと。彼らは哲学的ゾンビだけれども、それでもそこには合理性による秩序が生み出されている。その世界では、<あなた>と<私>という区分は存在しない。

その世界はとてつもなく平和な世界に見えてくる。そこには劣等感なんてものはなく、逆に優越感もない。自尊心もなければ共感もない。楽しみだとか悲しみだとかは存在しない。その世界には自らが自らを痛めつける精神的苦痛は存在しない。なんて穏やかな世界なんだろう。<意識>がなくなったとき、人類は人類という種を残す為だけに活動し始める。生産と消費が完ぺきに調整され、人々が種の存続のために自発的に活動し、死滅する。

でもそう考えても、それが本当に良いことなのだろうか。そもそも合理性とは何のか。人類の発展の歴史は合理性だけで発展してきたのだろうか。自らが死ねば5人が生き残るトロッコ問題がったときに自死を選ぶことが合理的なのだろうか。

何も結論は出なかったけれども、久しぶりに哲学とそのSF的理解が深まって有意義だった。物理でも何でもそうかもしれないけれども、思想のある創作物は読んでいて楽しい。生きているという気がする。またこういう頭にズドンと来る小説を読みたい。

それはそうと、次回は気楽に前期アニメの感想を書きたい。

*1:とてもヒューム的な精神の理解じゃない?知覚の束、その劇場が精神っていう解釈

*2:西田幾太郎と純粋経験論との関連も気になる

*3:キズナイーバーを見て

*4:よく読んだら、伊藤計劃記録Ⅱの「人という物語」にこのことが書かれていた。というか、あそこに彼の思想がたくさん書かれているんじゃなかろうか

その数式、プログラムできますか? を読んだ

巷ではコーディングテストの類が人気を博し、様々なテスト対策が実しやかに囁かれている昨今、しかしアルゴリズムだけを勉強するというのには何故か興が乗らず、どうしたもんかなぁ、と思っていたらこんな本を見つけた。

原題``From Mathematics to Generic Programming''、 著者はあの有名なC++STLに関わった例のStepanovさんと、Appleなどで活躍されたDaniel E. Roseさん。原題に to generic programming と書いてあるけれども、そこまでテンプレートテクニックの話をするわけではない。数学的抽象化とその概念を有するgeneric programming について、昔から知られているアルゴリズムとそれにまつわる数学の話、そこから派生する数学的抽象化とそのプログラムへの表現、最適化について、思想面、歴史面から紹介する。章末問題や例題、コーディングの例も付録され、手を動かしてアルゴリズムの実装と原理を学べる。

本書はA9.comにて行われたStapanovの講座の内容を一冊にまとめたもので、内容が導入から深化していく過程はまさに講義、という感じで引き込まれた。自分としては歴史的な経緯と数学の話が混ざって紹介されるところ、数学的抽象化とそのアルゴリズムとしての実装、拡張、最適化ということが、思想的に連続性をもって繋がっていることが語られていて、面白かった。数学に関する深い知識と、それらがアルゴリズムという形でプログラムに関連していく内容は、「プログラムを通して偉大な数学的抽象化に触れいている」という感覚を読み手に沸き立たせるようで、読んでいてわくわくした。

ぶっちゃけ、プログラムの世界で代数学が使われていること、公理論や圏論が使われていることは知っていたけれども、物理数学に毒された自分は「幾何学こそが世界の記述言語であり至高。代数学は人間の言葉でしかない」とか思っていました。しかしこの本を読むと、抽象化された概念がアルゴリズムを介してプログラムとして実現され、今や人類の文化活動になくてはならないものとなったことを考えると、「いやあなどれねぇ」って気持ちになりました。反省します。

この本は面白かったのだけれども、ただ、講義形式だからこそかアルゴリズムについてはそれほどたくさん書いているわけでもないので、「たくさんのアルゴリズムの実装と理解を経て強くなりたい!」って人にはお勧めできない。ある種の啓蒙書、思想書として読むと「ふぇぇ、おもしろぉ」ってなる、と思う。

何度も読んで理解していきたい、という気持ちになった。

以下雑感とメモ。

第1章はいわば序章で、本書の内容の目的、概観と読み方について説明している。

第2章、「アーメスによるアルゴリズム」或いは「エジプト乗法 (Egyptian multiplication)」或いは「ロシア農民のアルゴリズム (Russian Peasant Algorithm)」について。位取り記法なんてものがない時、そして足し算だけで何とか大きな乗算を計算したい時、さてどうする?方法としては2の累乗で掛け算を実行する2の累乗を行うことで、例えば4倍の計算はそのままやると4回足す必要があるけれども、2倍を2回足す (2倍を作るのに1回足し算 + 2倍同士の足し算1回) と考えると2回で済む、という話。ここで奇数を判定するには、1との論理積を取ればよい (そりゃそうだ、ビットの末尾は1を足すかどうかなので、奇数かどうかはここだけで決まる。1は一桁目以外はすべて0なので、論理積を取れば一桁目の0,1のみで結果が決まる)。右シフトは一桁目の情報が落ちるので、結果的に7だったら3が出てくる。これで大体、任意の乗数はO(log(n))で計算できる。とのこと。情弱なので、実装の再起呼び出しは使ったことがなく、へーと勉強になった。for で書いてしまうけど、再起呼び出しって使うメリットがあるんかな (実装の簡潔さ以外に)。

第3章は、有名なエラトステネスの篩とピタゴラス(学派)の話。面白かったのは、エラトステネスの篩で計算を進めると、必然的にある素数の篩は、自身の次は自身の2乗になるって話(当たり前ではあるんだけれども)。

第4章はユークリッドの互除法。その昔紀元前300年頃、ファラオがパトロンになってムセイオンという研究所で学者を飼っていたのかぁ。そのうちの一人がユークリッド。コラム面白い。3世紀ごろ中国の劉徽(りゅうき)は円周率が3よりも大きいことを証明したそうな。ただし彼の九章算術という数学本の注釈を書いた業績の一部。この九章算術、調べてみるとガウスの消去法がすでに載っていたとか。すごい。0と位取り記数法って紀元前1500年にもすでにバビロニアで使われてたんだ。え、全然知らなかったのだけれど、ビットシフトって実装されてないアーキテクチャってあるの?要調べ。

第5章は15世紀末から始まる近代数論で、第6章には合同演算と群論、そこから圏論の話が簡単に紹介される。ちょっと雑多な感じがするけれども、ここで言いたいのは数学の抽象化がアルゴリズムの一般化の思想につながっている、と言いたいのかも。圏論の話は言語仕様の話に少しだけ関わっている。

導入の流れが面白い。ここでのフェルマーの小定理の話は次の合同演算の話の導入に、そして合同演算はそれによって出来る群をもとにその小定理がより簡単に導かれると同時に、この群論の抽象化が圏論になる。ものすごい導入だ。[tex:{ \displaystyle 2n-1 }]であらわされる素数は257以下においてすべてわかっているそうな。これをメルセンヌ素数と呼ぶ。最大はn=257の時。これが1644年頃に見つかっている。フェルマーの小定理って面白い。{ \displaystyle a^{p-1} -1 }素数pで割り切れるっていう話。面白い。

第7章ではアルゴリズムを演算を満たすいかなる型においても可能なように一般化するという話。第8章では環や体と言った群以外のその他の代数構造の話とかする。第9章では数学を数学する話。ペアのの公理とか。第8章から第9章は数学一般の話に行って、あまりプログラムの話はしない。

飛んで第12章のGCDの拡張は、それまでの伏線もあって面白かった。

文系と理系はなぜ分かれたのか を読む

本屋の売れ筋ランキングで棚に飾ってあったところ、ちらっと手に取ってみたらそこそこ面白かったので読んでみた。

内容は「文系と理系という枠組みはいつ生まれたのか」そして「文系と理系の社会との関わり」について、歴史的、現代的な観点から議論している。特に、歴史的側面は学問的分化を、現代的側面は社会的要求について述べることで、それぞれ枠組みの生まれた理由、今後の行く先について考察する。具体的には、前半は現代的学問と大学の始まりである中世ヨーロッパのおけるアカデミーから話をはじめ、日本における明治維新以前以後における学問の在り方、そしてそこから続く現代の理系文系の社会的認識と要請について説明する。後半はジェンダー的側面からの文系理系、現状活発に進められている文理学際研究について述べ、最後に今後の理系と文系についての展望、というのが以上が本書の構成。

感想。最初の3章は「なぜ分かれたのか」についての歴史的側面の話で、自分の置かれている環境と照らし合わせて理解できて、面白さを感じた。特に1800年代のドイツにおける新しい大学方式導入の話は面白かった。1810年設立のベルリン大学の当時の研究者教育方針である(p52)、

他にも新しかったのは、研究と教育の一体化に取り組んだことです。すなわち、既に出来上がった知識を師匠が弟子に享受するという形ではなく、若者が未解決の研究課題に取り組み、先達として教授がそれを支援するという、教育と研究を同時に行う方式に大学が転換されたのでした。

は、自分の指導教員が取っている方式で、なるほど由緒正しい方針なんだなと。しかしこういう方式だと、いわゆる職業訓練的、技術養成的な教育は難しい。これに対して、1830年頃のユストゥス・フォン・リービッヒ(リービッヒ冷却管の人)の取り入れた実験教育方式は、``実践的かつ無駄のない''技術訓練が行われ、多くの成果を出す研究者集団を短期間で養成できた。しかしながら、彼らは逆にその無駄のない教育方針から、狭い範囲でのスペシャリストでった、というわけです。そういう意味では、このスペシャリスト達のほうが、産業利用としては求められる人材なのかもしれない。

他にも、江戸時代の蘭学、洋楽の捉え方や明治維新における西洋学問の受容と普及、学問の捉え方は、現代の日本の学問に対する考えたかにつながる点もあって面白かった。まさか工学部という工学を専門とする学部がきちんと整備されたのは世界的にも日本が初、というのは面白かった。

後半の話は、現代の話ということもあって、もう少し自分の中で情報を集めて再度考えてみたい。話としては歴史的な部分のほうが面白かった。

最近読んでいる「社会思想の歴史」とも関連して、歴史的部分の理解を進めたい。ていうか、ラノベのアイデアにならないかな。

SICARIO (2015) を見た

悪を裁くのは正義だ。しかしその意味は、悪に対する対義語としての正義、という以上のものではない。もし、悪でないから正義である、という同語反復でしか正義を定義できないのならば、はたして正義を求めることに意味はあるのだろうか?悪に対する復讐は正義なのか?悪を打ち砕くための非道は果たして正義なのか?正義とは一体何なのか?

この物語は、主人公であるFBI捜査官のケイトが、メキシコ麻薬カルテル捜査を担当するマット・グレイヴァ―、謎多き元検察官の男アレハンドロ・ギリックと共にメキシコ麻薬カルテル捜査に挑む姿を通して、カルテルと付随する問題を背景に、その究極的問いに答える映画...

ではない!

この映画の目的はずばり、「すみやかに仕事を終えていくカッコいい、渋いおっさんたちを描きたい」でしょう!違います?!そうじゃない?違うのかな…。

いや、確かにこの映画には先の問いかけを描いているようにも見える描写がある。序盤から意味深に、とある家族の風景をちょくちょく差し込んでいるのも、そういったテーマを予感させるための準備だ。でもそれは、物語を転がすための単なる舞台装置なのだ。観客に物語の進行とともにカタストロフを与え、主人公たちが置かれている世界観に観客を引き込むための仕組みでしかない。なぜなら、そんな問題を、決してこの映画は問いかけたり、答えたりしようとしていないから。なにせ主人公は悩むだけで答えをいつまでたっても出さず、もちろん誰かが代わりに答えてくれるわけでもない。というか、答えるのがこの映画の目的ではない。

だってさ、夕焼けをバックに暗視ゴーグルを下ろしながら任務に向かっていく黒い影、緊張感のある無線交信と交戦規定の確認シーン。速やかに任務をこなし、躊躇なく引き金を引いて退却する潔さ。隊列をなして進む四駆。むさい男たちのブリーフィングシーン。そういう、大きな爆発もなく、派手な銃撃シーンがあるわけでもない。ただ速やかに、確実に、こなすべき仕事を淡々と機械的に終えていく、そういうハードボイルドな男たちの戦う姿ってのを、いかした画作りでめちゃくちゃカッコよく描写してるんだもん。なんじゃそのカット。かっこよすぎだろ!これ描きたかっただけやろ!って言いたくもなる。

勿論、扱う内容はショッキングだ。冒頭から麻薬カルテルのえげつない所業がこれでもかと写されるし、同情したくもなるような人々が殺されたりする。でもそれは、単にエンターテイメントとしての躍動感やストーリー展開上の快感をもたらすための要素であって、それらは一つの視覚的効果に過ぎない。正義とは何かと葛藤する主人公は、観客の代理であって、物語の導入と視点を提供する以上の(つまりは所謂典型的な)主人公以上のものではない。そしてこの物語で最も描写したいのは主人公や主人公の取り巻く環境ではなく、マット・グレイヴァ―とアレハンドロ・ギリックなのだから。自らがやっていることが、悪の対義語としての正義以上のものではないということを自覚しながら、あまつさえ、それで自らの目的を正当化する。彼らには葛藤はない。そんな葛藤には、何も意味はないからだ。

復讐は復讐を生み出すということを知っている。殺せば殺し合うのも知っている。だったら殲滅してしまえばいい。殲滅するまで戦えばいい。そう命令されるならそれをなす。それが仕事で、それが目的なのだから。仕事である以上それを遂行するのが、社会に生きる人々の常だ。仕事がなされるならば、そこにどんな感情的原因があろうと、咎める理由にはならない。

自分はこの映画は好きな部類だと思う。意味だとかなんだとかそういう物を求める人には向かないかもしれない。でも、とにかく画作りがきれいだし、いちいちカッコいい撮り方しているしで、映像としての、映画としてのエンターテイメント性は非常に高いと思った。この映画を見て「交戦協定とか確認すんの?かっこえぇえ!」とか思っちゃう上記のコアな性癖を持ってる自分は、もうそれだけで楽しめました。御馳走様です。

03/13/2019 追記 ふと、なぜこの作品において敵は「アルカイダ」ではなく「麻薬カルテル」だったのだろう、と思った。別に舞台が例の中東地域であっても、ハードボイルドな男たちを作れそうな気がする。いや、確かに「テロとの戦い」っていう話はすでに陳腐化していて、壁とかという話で時事的にメキシコっていうのはわかる。

ちょっと考えてもあまり面白そうなことはわからなかった。主人公がマット達と行動しやすくするため、っていうのもあるとは思う。まだまだ修業が足りない。

動物行動の分子生物学 を読む

某図書館にてお勧めされていた本。最近とある事情で感情の科学についての興味がむくむく沸いていて、良い機会だからと借りて読んでみた次第。門外漢で戦々恐々としながら読み始めたのだけど、いや、結構面白い。

中身は動物の行動とその動物内で起きている分子生物学的な現象の関係性について、最近の解ってきたことをまとめたもの。動物と言っても、最近の遺伝子操作技術や観測技術の向上で比較的よくわかって来た、線虫、ショウジョウバエ、ゼブラフィッシュ、メダカ、マウス、ミツバチに限定している。限定してはいるけれども、分子生物学っていう、生物学の中ではかなり要素還元主義的な視点で理解されているため、人間にも適応できそうな話、という印象を受けた。

特に面白かったと思った話をメモしておくと、 p61のコラム。ショウジョウバエには経験依存的な求愛抑制、いわゆる失恋記憶行動がある。このハエにおいては、エクダイソンと呼ばれるステロイドホルモンがこの失恋記憶行動に関係しているらしい。この経験依存的な求愛抑制は、なんと失恋した回数(正確には求愛して交尾に至れない時間)に依存した期間、求愛行動を起こさなくなるらしい。面白い。この事実は、エクダイソンの合成能力を遺伝的に低下させた固体では失恋記憶が構成されないことからも明らからしい。さらに面白いことに、失恋直後ではなく、時間がたったのちにエクダイソンを投与しても、逆に求愛抑制が短くなるそうな。面白い。しかも、こういったステロイドホルモンは、こういった感情に起因する記憶、つまり情動記憶の形成に関係していて、他にもコルチゾールと言ったステロイドホルモンが該当するような。

p110 2013年の利根川らのグループによる世界初の記憶の人工操作。マウスに置ける実験で、場所依存の恐怖体験(ケージAとケージBを用意して、ケージAでのみ電気ショックによる恐怖を与えると、ケージAですくみ行動を見せるが、ケージBでは見せない)を、人工的に海馬を刺激することで過誤記憶(false memory)とすることが出来る(ケージBにいる時に、ケージAを思い出すように、海馬を刺激すると、ケージBにいるにもかかわらず、すくみ行動を見せる)。この本ではこれらは人間で言えば例えばPTSDだとかパニック障害が対応すると言っている。こういうような条件付けや学習の効果が他の条件においてもみられることを「記憶の汎化」というらしい。

ただ、p122で述べられている通り、こういう人工的な海馬などへの刺激が、本当に神経細胞ネットワークにおけるシグナル伝達をきちんと模倣しているのかと言われると、それはまだ十分検証の余地がある。つまり、本当は電流でだけではなく、さまざまな神経興奮の組み合わせで起きている現象であるはずなのだけれども、実験の精度上、局所的、ともすれば破壊的とも言える操作を加えているのであって、それは本来の反応や動作ではないかもしれない。なので、言えることはまだまだアバウト、であると言える。つまり引用すると[p123]、

あくまでデータは「総体としては、~の領域は~の興奮・抑制に働くと考えられる」と捉える必要がある。

ひとまず、こういう、ある意味では要素還元主義的な、非常にミクロで基礎的な部分から理解していく研究は、肌に合う。人間も同様な気候で脳みそが動いているわけで、やっぱ行動主義心理学っていうのは形を変えて進歩しているんじゃないか。

でもこういう、ミクロな話をすると決まって、マクロな話はミクロな話を積み上げていけばわかるのか、みたいな疑問が投げかけられるけど、どうなんだろうね。統計力学と熱力学の関係って、どんな所でも現れている気がする。組織としての振る舞いと、組織を構成する要素の振る舞いの関係性。要素の性質が全体の組織の構造を作る。でもたぶん、要素をいくら詳細に理解したとして、その性質がすべて全体の振る舞いを表すかと言われれば、多分精密な話では一致しない。組織の振る舞いを個人の振る舞いに投影して理解することの馬鹿らしさっていうのは、いわゆる国家の意思と国民である個人の意思が食い違っているってことからもわかるし、部分が全体の縮図であることはまずありえない。一方で、自然界の臨界現象で見られる特徴は、その微視的な構造やダイナミクスに寄らずに見えてくる。そこには、多分要素それぞれ自身には自覚できない、祖視化することで見えてくる共通の性質があって、それが臨界現象で見えてくる。そういう意味では、国家の振る舞いが国民の振る舞いの何らかの祖視化にはなっている。集団の統計性。集まることで見えてくる普遍性。何があるんだだろうなぁ。

まとめると、なんか出てくる言葉がいちいちカッコいい。Memory engram 記憶痕跡だとか Contextual fear conditioning 文脈的恐怖付け、記憶の汎化とか。

疲れた脳みそで書くことじゃない。返却日も近づいているのでこの度はご了承願います。