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オタクの日々の雑感、本、アニメ、映画の感想。

光の速さはどれくらい

某タイトルはカッコいいSFの題名を書き換えたら全然タイトルっぽくなくなってしまった。

ということで、久しぶりにまじめな物理の話をしたいと思います。

今回は、「光の速度がどの観測者に対しても同じである(光速度不変の法則)」から相対性理論を、嘘なく外観を説明したいと思います。

というのも、最近ゴリゴリの文系エリート友人に相対性理論の話を聞かれるという状況に会いまして、その時さらっとわかりやすく説明できなかったんですね。そこでかなり悔しい思いをしたんで、もう一度説明を練り直してメモしておこう、という、まぁ負け惜しみみたいな話です。

それでは本題に。

相対性理論によれば、光の速度はその速度を観測するいかなる観測者においても変わらない。そう言われると、「へぇ、そうなんだ」で済んじゃいそうな話なんですが、これは結構重大なことを言っています。

特に重大な部分は、「速度が観測者によって変わらない」という点。これは何を意味するのか。

速度が観測者によって変わらない、というフレーズには2つの大きな着目点があります。一つは速度の大きさ、つまり「速さ」が変わらないこと。そして二つ目は、速度の「向き」が変わらないこと、つまり「直進する」こと。この二つです。

まず速さに着目してみましょう。速さというのは、距離と時間によって決められるものです。また、車に乗っている時や電車に乗っている時にわかるように、自分がある速度で動いている場合は、見ている物の速度も当然相対的に変わるはずです。そういうことを考えると、日常の感覚で言えば、「速さは変わらない」という約束があきらかに非日常的な条件であることは間違いないです。

まぁ、しかし、今はその条件が正しいとして認めたとしましょう。となるとどうなるか。自分が一定の速度で動いていれば、光の速さは当然変わるが、しかし光の速さが一定であるという条件から、速さは変わることは出来ない。そこで、速さは距離と時間によって決まることを思い出してみる。つまり、距離或いは時間の単位を伸び縮みさせればよい。例えば観測者Aと観測者Bの間で、「Aにおける1㎝がBにおける2㎝になっている」みたいなことが起きる。ここから、「観測者によって、時間或いは長さが変わる(観測者間で時間や長さの単位が異なる)」という、特殊相対論でよく知られた事実が出てくるわけです。

この事実は光の「速さ」が変わらないことに着目して導くことが出来たわけですが、では次に光の運動の「向き」が変わらないこと、つまり、「直進する」ことに着目すると何が導けるのか。

そのためには、ここまでは一定の速さで動いた観測者に対する話だったわけですが、今度は加速している観測者を考えます。

ある一定の方向に加速している観測者、ここでは何らかの意味で垂直方向に加速していて、観測開始時刻には光源を水平方向に見ている、となるような人を考えます。この人を仮に観測者Aと呼びましょう。また、この状況を俯瞰的に見ている観測者がいるとし、これを仮に観測者Bと呼びます。

さて、観測者Bにとっては、光は水平方向にまっすぐ進むはずなので、光が垂直方向に加速する観測者Aから遠ざかっているように見えるはずです。一方で、日常的な感覚では、観測者Aからも光は遠ざかっている、特に孤を描くように遠ざかっているように見えるはずです*1

しかしこの推測は、光の運動の「向き」がどの観測者にとっても変わらないこと、つまりどの観測者にとっても直進していなくてはならない、という最初の約束事から許されないことが分かります。どの観測者においても直進しているように見えなくてはならないことから、観測者Aにとっても、光は直進していくように見えなくてはなりません。ではどうするのか。

簡単な話です。空間を歪めてしまえば良いのです*2。つまり、光が向きを変えない、直進するように見えるよう、観測者Aの周りの空間自体を曲げしまえば良いわけです。まったくもって非日常的ですが、またまた最初の約束を正しいとして考えれば、こうやって空間を曲げざるを得ません。そしてこの事実は直ちに、「観測者を加速させる状況において、常に空間が曲がる」という主張を導きます。観測者を加速させる状況、すなわち「重力」がある状況です*3

このことから、重力の理論に空間の言葉が入らざるを得ないことが分かります。そしてその帰結が、一般相対性理論なわけです。

以上、光速度不変の法則から特殊相対論と一般相対論の二つが導かれることがなんとなくわかってもらえたと思います。 まとめを難しく言えば、「速度という『相対運動』によって変わりえるものが不変であらねばならない、という非日常的約束事から、自然に時間と空間を合わせた、所謂時空間についての議論が出てくる」ということです。

こう考えると、光の速度が観測者によって変わってはならない、この事の帰結がかなり非日常的な主張を導くことが分かったわけですが、それでも物理学者はその非日常的な主張を受け入れて理論化できた、ということに驚嘆するわけです。これはひとえに、実験事実と正しさの積み重ねを連綿と続けた結果ですね。

まぁ、非日常的主張なんていうものを無根拠に信じるのは似非科学だったり宗教だったりするわけで、それを信じるのは別に個人の価値観によるので正しいもくそもないけれども、科学においてはそうはいかない。というか、そんなことをしていても法則を明らかにすることは出来ないわけで、人間的な信条と科学的判断の間にはあまり関係はないというか、切り離してやっていく必要があるっていう話ですね。

ということで、備忘録的に書いておきます。

次は久しぶりにSFの感想とか書きたいな(って言いながらアニメの感想を書くんですけどね...)。

追記(2020/01/11):

上記の導出を考えると、結局こういう理論を考える時は、所謂「観測者と呼ばれる存在」とは違う俯瞰的な視点から議論しなくてはならない、ということが分かる。光速度の不変性を議論するとき、特に直進性を考える時光の軌跡を考える必要があったけれども、それは観測者の立場では見ることは出来ない。俯瞰的な立場に立った時に、光が曲がってしまうという現象を仮定することが出来て、そこから空間の歪曲、という飛び道具を思いつくことが出来る。この時、観測者が何かという話はしないし、俯瞰的な存在の詳細についても議論しない。それでもうまくいくわけで、そんなものは問題ではない。

でもよく考えると、これって、実は量子力学の確率解釈にも言える事ではないだろうか。というのも、相対論で観測者っていう仮想的な存在を仮定して俯瞰的に議論したように、量子力学においても観測者という立場を仮想的に導入して議論しなくてはいけない。相対論では観測者というのは一体何なのか、という話はしないように、ここにおいても観測者、という存在がいかなるものかを議論してはいけないんじゃないか。光の曲がりを想像したように、量子力学においては、確率という現象を想像したんじゃなかろうか。

なんて、ふと思ったけど、じゃあ確率解釈をどう想像するかは決着ついてないわけだし*4、なんとも言えん。

*1:等速度運動を考える限り、光の軌道が曲がることはありません。加速度運動を考えることで初めて曲がった光の軌道が出てくる

*2:特殊相対性理論の方で言ったように、時間の尺度が場所によって違う、といっても言い

*3:光が重力を感じて曲がるわけではない。光の質量は0なので。

*4:多世界解釈とかは光の歪曲と同じような考え方なのかも

アイドルマスターシンデレラガールズ(2015) を見た

この物語は、笑顔だけが取り柄の女の子に、仲間たちが次々と進歩していく姿を見せて、「私に笑顔以外の何があるんですか」と泣かせる物語。

ではなく、「普通の女の子たちが自分の輝きを見つけるために一歩踏み出す物語」です。誤解しないように。

とにかくキャラの奥行きがすごい。行動描写が丁寧だから、全ての動作にどのような内的根拠があるのか想像できる。というか、想像できるようにキャラを設計しているし、それを描写している。それが出来るのは、キャラクターがいつ、どういった場所にいるべきか、どう行動すべきかをきちんと詰めているからで、それを描写できるだけの時間的資金的余裕があるから。Cygamesすごい。

多くのキャラクタが登場するし、(多分一人を除いて、というか周りが個性的であるから逆説的に個性的、という意味で)誰もが個性的だから、どのキャラクタを主人公にしてもこの物語はある程度の形になると思うし、誰に感情移入するかで物語の見方も変わる。まぁ、それは物語を見て解釈するという行為につきものなのでここで言うまでもないのだけど、しかし誰に注目してこれからこの物語について述べていくか、という場合に限っては、やっぱりきちんと書いておくべきだ。なのでここで明言しておくけれども、この感想は島村卯月を主人公だと思って述べていく。

さて、自分にとってこのアニメシリーズは、島村卯月、という「よくある普通の、ただ頑張って生きる人へ送る、諦めんな前へ進めっていう激励的アニメ」だった (と書いている時点でかなり重症に傷を負ったのがわかるわけですが)。

島村卯月、と言うキャラクターにフォーカスして、彼女の物語としてこの物語を眺めた時、この物語は、決して「夢を叶える物語」ではない。なぜなら、既に彼女の夢は、第一話で叶ってしまっているのだから。

第一話の冒頭で、他の同期が皆アイドル養成所をやめていく中、彼女は一人レッスンを続けていたことが示唆される。諦めずにアイドル募集に応募し続け、補欠合格でシンデレラプロジェクトに合格する。それ自体が、彼女の夢であり、その時点で彼女の夢はすでに叶ってしまったといっていい。アイドルになってアイドルをすること。仲間たちがいなくなっていく中で、必死に頑張ることで成し遂げた、アイドルになること。その時点で、実は「夢を追いかけ叶える物語」が一つハッピーエンドで終わっていることになる。しかし、この物語は、それがスタートだ。

彼女の夢が叶ってしまった時、では次に彼女は何をすべきなのだろうか。アイドルとして活躍すること、とにかくアイドルとしてアイドルをする。それが当面の彼女の目標であって、第22話までは、それで問題はなかった。というか、問題が顕在化しなかった。第22話になって、その現状維持が不可能になる、つまりnew generations という最初のユニットが分裂し、新たな状況に直面した時、内在していた問題を呼ぶ。「アイドルになった今、じゃあ次に何をしたいのか、どうなりたいのか。」

多くの物語にとって、叶えたい夢を叶えるのはハッピーエンドだけれども、この物語はその先があることを突きつける。アイドルとしてスタートした仲間たちが、それぞれ特技を伸ばし、進歩していく中で、自分は何か進んでいるのだろうかと自問する。笑顔が取り柄で、それが良いと言われたけれども、それ以外は?他人と比べてしまうことで浮き彫りになる自分の平凡さ。島村卯月は、第22話でそれに気が付いてしまう。

こういう感情は、何かを目指していて、誰かと比較してしまって、でも頑張りたくて、という人間には、きっと身近なことだと思う。才能のある周囲の人間と自分を比較したときに、例えその絶対的な立ち位置が、多くの人間より優れていたとしても、自分の没個性を大きな劣等感と共に否応なしに自覚してしまう。それを自覚してしまうと、途端に惨めな気持ちになる。彼らが遠いところに行って、取り残され、あまつさえ足を引っ張るかもしれない。だとすれば、自分なんていないほうが良いんじゃないか。消えてしまえばいいのではないか。迷惑をかけるぐらいなら、いなくなった方がましだ。そう思う時がある。そういう、立ち止まってしまう時がある。じゃあそういう時、どうしたらいいのだろうか。自分の没個性と劣等感にどう決着をつけてやればいいのだろうか。

この物語は、その問いに対して真摯に、悪く言えば冷徹に、答えを述べる。その答えは結局のところ、「探し続けるしかないし、向き合い続けるしかない。」

彼女に隠れた才能があるとか、彼女が気が付かないだけですごい能力があるとか、そういう見え透いた救いに、この物語は逃げない。そこで逃げてしまえば、茶番になってしまうとわかっているから。そんな都合のいいことはない。悩めば救われるわけではない。助けれてくれと言われれば、神様が才能を分け与えてくれるわけではない。現状は、悩み、苦しめば変わるわけではない。そういう救いがないとわかった上で、それでもどうすべきか、この物語は真摯に描写する。

結局のところ、最後に問われるのは、自分がどうしたいかだった。劣等感を受け入れて、それでも自分はどうしたいか、それに向きあって、覚悟を決めるしかない。それはとてもつらいことだ。自分がまるで悪いことをしているかのように思える。だめな自分はいなくなるべきなのに、でも自分は、まだ頑張っていたいと思ってしまう。なぜなら今、自分は夢の場所に立っているから。

救いがあるとすれば、それは彼女を待ってくれる人がいたことだ。彼女の可能性を信じた人々がいたことだ。というか、それしか救いがない。可能性は可能性で、それ以上でもそれ以下でもない。でも、可能性は試さなければ意味がない。彼女はその可能性を信じることにした。それは自分の夢の舞台に立っているという思いだけではなく、少なからず待ってくれている人がいたからだろう。自分の可能性を信じたい。信じ続けるために、挑戦し続ける。挑戦しなくては、その可能性を見つけられないから。待ってくれる人がいて、その人たちと見つけたい。本当にただそれだけなのだ。

そういう意味で、この物語、ハッピーエンドだったのだろうかと言われると、島村卯月というキャラクタに注目する上では、多分そうとは言い切れない。ハッピーエンドといえるほど、問題は解決していないから。それでも、彼女は前向きに生きることを決めた。結局のところ、頑張るしかないのだ。頑張って生きること。それ以外に、実は答えなんてないのだ。彼女がいつも言っていた言葉は、最初からずっと口にしていたそのフレーズは、最後の最後に、空虚なおまじないではなくて、彼女の決意の答えとして語られたのだ。

自分もただ、覚悟をもって頑張りたいと、決意を新たに出来る良いアニメだったと思う。ソシャゲのアニメ化だと思って舐めていたけれども、めちゃくちゃ出来が良くて、なんかすっごく人生について考えさせられた。良く出来過ぎていて、これだけでは書き尽くせないけれども、そろそろ指が疲れてきたのでここまでとしよう。本当に面白った。

次は映画の感想を書きたい。トゥルーマンショーとかタクシードライバーとか。

ジョーカー(2019) を見た

自身の生命活動を維持する最低限の共同体から孤立し、共同体に属する理由を失った人間の取る最後の行為は、今のところ二つある。

自殺か、他殺。しかも後者の場合は、恐らく大量殺人が好まれる。

どちらも、自らが存在する世界の破壊ではあるのだけれども、それが主観的か、客観的かという違いがあって、そしてどちらの選択肢を選ぶかは、逆説的にどちらの世界を守りたいか、を根拠としている。

この映画の主人公、アーサー・フレックは後者を選択し、主観に生きることを選んだ。そして共同体との繋がりが縛っていた彼の狂気性が解き放たれ、名実ともにDCコミックスの有名ヴィラン、「ジョーカー」となる。

と言うのがこの映画の概要なのだけれど、この概要を芸術的な構図、考え抜かれた映像効果、計算されたシナリオで緻密に描いていくことで、リアリティがすごいだけではなく美術としても美しい映画になっていた。いやすげぇ、ほんとにハングオーバーの監督かよ(いやハングオーバーも結構面白かったけれども)ハングオーバーの監督がこれ作ったって聞いて耳を疑ったよ。リアリティがありすぎて、見ている間ずっと苦笑いしてた。どこか「無敵の人」の文脈で聞いたような、どうしようもなさ、が表現されていて、見終わった後はただただ悲しいというか、やるせなさしか感じていなかった。いや、見てよかった映画ではあるんだけどね。

改めて思い返してみると、この映画、描写がものすごくえげつない。主人公が自分の評価される風景を妄想するシーンとか、評価されていない事の裏返しすぎて痛々しさが増すし、頑張っても病気のせいで空回りして、どうにもならない姿が描写されると、あぁ、救いがないなって思えてしまう。この映画は、本来物語が出来るはずの「見ないことに出来る不条理」を徹底的に描写することで、救えなさを表現している。そしてその救えなさが、アーサーフレックのジョーカーへの変貌に納得感を与えている。ここまで来れば、まぁ吹っ切れちゃうのもわからんでもない、って気持ちにさせてしまう。母親を窒息死させるところなんて、むしろ清々しい気持ちにさせられた。彼にはもう何も守るものがないのだと、何も気にする必要がなくなったのだとわかると、見ているこっちも「あぁ、この後は何が来ても仕方ないって思えるな」って納得してしまう。そこに心地良さを感じさせるなんて、すげえ映画だ。恐らくタイトルがジョーカーで、ジョーカーになる過程を映画いていると知っているから、こうやって楽しめたんだと思う。だって最後には闇落ちするって知っているから、救えなさが悪への道として安心して見られるし、これが別のタイトルだったら、いつ自殺するのかとハラハラするところだ。

多くの人が感想で言っているように、この映画におけるジョーカーは「悪のカリスマ」としてジョーカーではない。じゃあ、どういうジョーカーなのかと言うと、「共同体に絶望した人間達の、暴力への象徴」としてのジョーカーだ。簡単に言うと、多くのテロリストの一人としてのジョーカーだ。

彼は単に共同体から孤立した人間の暴力を象徴的に行ったに過ぎない。彼は単にタイミングよくシンボルをもって暴力を行ったに過ぎなくて、それが同じ境遇の、同じ価値観の人間の箍を外しただけで、彼自身に魅力はない。もし彼に魅力があってカリスマがあるのなら、彼は社会から切り離されることはなかったはずだ。彼に魅力がなく、誰もが彼から何かを得られなかったからこそ、彼は社会から孤立した。だから、この映画におけるジョーカーは「悪のカリスマ」にはなれないし、彼でなくてもこの映画におけるジョーカーにはなれる。暴力の引き金を引けた人間ならだれでもよく、アーサーフレックという「ジョーカー」がいなくなっても、次のジョーカーが生まれるはずだ。

こう考えると、最後の車の上でアーサーフレックが躍るシーンや、テレビ番組でジョーカーと名乗るシーンは、ちょっとした違和感を覚える。彼はジョーカーと呼ばれることはないのだ。なぜなら「孤立する多くの人間の一人」に過ぎないのだから。人々の前で引き金を引いただけに過ぎず、誰かの言いづらい現実をただ言っただけに過ぎないのだから。ジョーカーと呼ばれるべきはピエロの格好をして暴力を為す群衆であって、個人ではない。テロリストのリーダー格を殺しても意味がないように、この群衆のリーダー自身には魅力はないのだ。暴力を為す引き金が欲しいだけで、理由があればなんだっていい。この映画におけるジョーカーは自らが行為することでその理由を体現しただけで、そこに思想があるわけではない。だからこそ、この映画に共感と言うか、同情する感想が多いのだと思う。彼には人を引き付けるカリスマがない代わりに、納得させられる境遇がある。それが唯一の彼への感情的な関心であって、それだけだ。

逆言うと、彼が共感や同情を集めるということは、多くの人にも最初に行ったような攻撃性があるってことだ。自分は善人だという面をしながら、実際は極限状態になったら殺してしまうかもしれない、ということに共感できてしまう人間がいるというわけだ。でもそういう人間がそこまでにならないのは、ひとえに「共同体との繋がり」が存在するからだ。その繋がりが縛りとなって、殺し合いを防いでいる。別にそれは社会保障が実現するべき繋がりでもなくて、小さな共同体でもちょっとした心がけで出来る繋がりだと思う。そしてそれは、富があれば出来るわけでもなくて、心がけと言うか、ちょっと気配りをするだけで出来ることだと信じている。この映画においても、多くの人が主人公に対して(ある程度意識はしているものの)無関心なのだ。彼自身にも問題はあるとは言え、どこかで誰かが関心をかけていれば、もしかしたら救えたかもしれない。

いや、ただそう思いたいだけなのかもしれない。誰かが救いの手を差し伸べられればうまくいったのかもしれない、と思いたいだけなのかもしれない。そういう救いがあってほしいと、僕がそう思っているだけなのだ。でも難しいよなぁ、人間自分の人生だけで精一杯だもん。

不況にある今だからこそ、この映画の描写が生々しく迫ってきて、いろいろなことに想いを巡らすことが出来た。描写する内容的な物だけではなくて、その描写の仕方、映画の撮り方も非常に気持ちが良く、良い映画だったと思う。見に行っていない人には是非、見に行ってほしい(ただし暗い気持ちになっている人は行かないほうが良い)。

なんにせよ、良い映画だった。

天気の子とCM

お盆休みで帰省した折、日清と天気の子がコラボしたCMを見た。

カップヌードルCM「天気の子」大切なシーン 篇 30秒 - YouTube

で、これを見た時になんとも言えない薄ら寒さ、みたいなものを感じたわけだけど、その理由を考えるに、たぶん天気の子がマスに向けた作品ではないにも拘わらず、CMというマスに向けた媒体に使われているその「ちぐはぐ感」が原因ではないだろうか。

CMで必要な「盛り上げ」に、今回の話は全く適していない。だって、そういう「みんなで盛り上げていこう」っていう調和を、この作品は真っ向から否定しているのだから。「みんなと」の話はどうでも良くて、「僕らが」良いと思う選択肢を選ぶって話なんだもん。そこに「みんなが盛り上がってどんどん買っていこう」みたいなCMは、完全に場違いだ。

君の名は。では、多分こんなことにはならなかった。あれは頑張る物語で、みんなで乗り切る物語で、協力とか、信頼とか、助け合いとか、そういったマスとの関係性、コミュニティに含まれることでの調和を肯定した物語だ。人々は無邪気に心を通い合わせるから、隕石が落ちる前に全員避難できちゃうし、主人公達は絶対にすれ違ってしまう場面で再会することが出来る。だから、君の名は。と言う作品が、ああいうCMに使われていても何ら違和感はない。コミュニティに属するみんなに対して発信され、それを受け止めたメンバー達が調和のために行動する。広告はそもそもそういう集団行動を煽る物であって、君の名はの題材はまさにお誂え向きだ。

でも、天気の子は違う。天気の子は、コミュニティから逸脱する物語であって、そのメッセージはマスに(その建前に)対抗するものだ。個人を調和の下で行動させるのではなく、それぞれが好き勝手にやることを肯定する物語だ。にも拘らず、コマーシャルというマスに向けた媒体において、マスとは対照的な(ある意味での)マイノリティに向けた映画を起用している、というその温度差がミスマッチと言うか空回りと言うか、そのかみ合ってなさが、あの薄ら寒さを醸し出してしまっているのではないだろうか。

こういうことを考えると、天気の子っていう映画が、実に切実で思い切った映画だったということに気が付かされる。この映画は絶対にヒットしない。恐らく次回の新海誠作品を見に来る観客の数はかなり減っていると思う。エンターテイメントとしての要素がきちんとあって、美術的にも優れていて、映画として申し分なく楽しめるにもかかわらず、そのメッセージの言外の圧力によって、恐らく興業的な成功は収めづらい。それでも次回作に来る観客は、確実に新海誠の次のメッセージが知りたくて来る人々だと思うし、それで良いと思う。次のメッセージに共感する人がまたやって来て、なにかを思って帰っていく。むしろ新海誠作品の良さは、そういった調和しない個人がよりどころにしている良さだ。その人気は、決して大きくなくても、強い人気になって、これからの彼の作品を待ち続けるだろうと思う。

2019/08/22追記

と思ったら、なんかヒットしちゃってますね...。ああいう感覚が今の世の中にあっているのかな。何にしても予想外。

「天気の子」興行収入100億円突破 新海監督作品 :日本経済新聞

天気の子 (2019)、を見た

事前情報を限りなくシャットアウトして見た後の感想は、下記ブログとほぼ同じで、「濃密なセカイ系を見せつけられた」って感じでした。

PS2版天気の子を俺たちは遊んだことが有る気がしてならないんだ。 - セラミックロケッツ!

映画館を出た廊下でひとしきりセカイ系であることを脳内で再確認して「君の名は。で獲得したパンピーに見せる内容じゃねぇ」という結論に達したところで、ふと疑問に思ったのです。新海誠はなぜ今、むしろ今さら、こんな2000年代初頭の議論しつくされたようなセカイ系という構造を持ってきたのか?だってセカイ系って、固有名詞があるように散々やり玉に挙げられて、批判されてきた構造で、そんな話を作ればあっというまに使い古された指摘が投げられるじゃないですか。なぜあえて、今こんな話をするのか。

そんな疑問でネットの海を渡っていると、毎日新聞新海誠監督へのインタビューや、NHKニュースでのインタビューがこの疑問の回答になってた。

でも僕は、個人の願いとか個人の欲望とかって、時にはポリティカル・コレクトネスとか、最大多数の幸福とかとぶつかってしまうことがあると思う。でもそういうことが今、言えなくなってきています。(中略) そういうところへの反発やいらだちが私の中でずっとあり、この閉塞(へいそく)感やどうしようもなさを吹き飛ばしてくれる少年少女がほしいという気持ちがありました。

毎日新聞「天気の子」新海監督と川村プロデューサーインタビュー・上 「バッドエンドの作品を作ったつもりは一度もない」より引用

セカイ系の批判の多くは、「主人公が少女に対して二者択一にする世界は、少年の認識によるとても薄く漠然としたものであり、そこに生きる人々を差し置いて少女を選んでよいのか?それは自己中心的で幼稚な行いじゃないのか?」というもので、そしてまさにその批判こそが、今回の映画の目的とする反応だった。多くの人々を犠牲にしてまで、少女を救ってよかったのだろうか?

そういう問いかけをするために、あえてセカイ系と言う構造をまた持ち出してきた。実際、NHKニュースの方ではこんなことを言っている。

例えば『君の名は。』というのは、『災害をなかったことにする映画』だと言われ、結構大きなショックを受けたんですね。(中略)その時に僕が出した結論は『君の名は。』を批判してきた方々たちが見て『もっと批判してしまうような映画』を作らないといけないと思いました。

NHKニュース「君の名は。」から「天気の子」へ 新海誠監督の格闘 “称賛” “批判”を受けとめてより引用

つまり、今回の映画は「君の名は。」の後ではなくては行けなくて、だからこそ今、あのセカイ系という構造を持って来た。

と言うことがわかったところで、じゃあ新海誠はひとまずセカイ系という構造でどういう結論を書いたのか、と言うのが気になってくるのだけど、いろいろ考えながら感想をめぐっていたら、考えていたことに近い考察があった。

天気の子 - たいやき姫のひとり旅

天気の子(その2) - たいやき姫のひとり旅

この方が言うように、そして諸々のインタビューでもあるように、新海誠はこの物語で「自分の大切と思う物を大切にする」と言うことを貫くことの是非を(観客に)投げかけていたのではないだろうか。自己犠牲ではなく、「自分のために祈る」ことを主人公は伝える。しかもそれを見て見ぬ振りせず、大人たちが「世界なんてもともと狂ってる」だとか、「ずっと前には海でした」なんて言い訳も否定して「世界の在り方を変えてしまった」と言う事実を少女の祈る姿から再度自覚する。それでも手を取り合って生きていくことを選ぶ。

以上の記事を読んで、確かにと納得しながら、でも当該リンクだけではなんか悔しいので自分でももう少し何か言いたい。

(以下、適当につらつらと書く)

そもそも「誰も犠牲にせず生きている人なんているのか?」っていう話なのかもしれない。資本主義社会という競争の中では、誰かが誰かの夢を踏みにじりながら自分のために生きているじゃないか。それはただ見えていないだけで、それは水没した東京で緩やかに死んでいく、もしかしたら生まれていたかもしれない、生き続けていたかもしれない人々を差し置いて生きていく主人公たちと同じように、ただ目に入らないだけじゃないだろうか。そんな今の社会を「そんなもん」と思っている大人たちは、この物語を否定できるのか?

お高く留まって幼稚な選択と言うけれども、でも僕らは弱くて、手の届く範囲でしか何かを守れない。目に見えないところで誰かを踏みにじりながら、手の届く範囲でしか何もできないなら、それで一番守りたいものを守る。そうやって大切なものを守り続けながら人々は生きていくんじゃないだろうか。

でもそれで良いのか?って言われると、いやぁ、もっとうまくいかんかなって思うよね...。

本当は誰かを踏みにじりたいわけでもないし、誰もが平和になってほしい。そういう甘いことはないってわかっているけれども、そういう社会になってほしい。世界と少女を選べと言われたときに、両方が助かる道の方が、いいに決まっている。でもそんな選択肢がない時、というかそれが今の社会だと思うけど、そしたら大切なものを守る方を選んでしまう。

やっぱりこの物語は「優先順位をつけること自体に問題はない」ってことを言いたかったんだ。大切だと思う方を貫け、ただその選択をしたことは自覚せよっていうはなし。エンターテイメントの都合上、少女を選ぶことになったけれども、実際はべつに家族のほうが大切だと思うなら家族を選べばよかった。時に世界の正義と反することがあっても、自らが大切だと思う方をとれ、自己犠牲を強いるなって話だった。

行きたいように生きよ、でも何が大切かはよく考えろって話。そして大切なもののために力強く生きろって話。大切なものの順番を根気強く考えろって話。

冒頭のThe Catcher in the Ryeみたいに、この話はすげぇ青臭いんだけど、でも青臭いからこそ見えてくるものがあると思えた、そしていろいろ考えさせられるいい映画だった。

追伸: めっちゃつまらないことに気が付いたんだけど、主人公、明確に「好き」って伝えてなくね?

インターステラー(2014) を見た

プランクダイブ」と「あなたの人生の物語」と「2001年宇宙の旅」を足して3で割って掻き混ぜた、っていう映画 (ただし3作品は小説版を指す)。

アマプラの感想にいろいろ賛否あるけれども、じゃあなんでああいう感想群になってしまったのか、少し考えて、多分ざっくりして言えるのは「冒頭から前半はかなりハードSF臭がするのに、最後の展開で「何故そこで愛ッ!?」ってなったから」ではないかと。

この映画の冒頭は、インタビュー風番組(それこそヒストリーチャンネルにありがちなその時代を経験した人へのインタビューみたいな) の挿入から始まる。そこから回想的に、気候変動し厳しい環境となった未来の地球を描写していく。人口減少が進み、未知の病原菌が蔓延して作物が刻々と絶滅していき、もはや人類がこれ以上住み続けるのは困難となった地球。人々は科学技術を発展させることよりも、農業従事者を増やし喫緊の課題である食糧問題を何とかする方が賢明だ考えていて、そんなわけだから、アポロが月に行ったことは嘘だったと教えていたり、大学に行くよりも農家になれと諭す(エスプリ効いている)。

主人公のクーパーはそんな時代の元宇宙飛行士。ある日娘のマーフの部屋で起きるポルターガイストが重力を使った二進数やモールス信号の暗号だということに気が付く。それはとある地点を指していた...。

という重厚なハードSF臭を漂わせながらこの映画は始まる。いや勿論、「え、重力を使ってそんなこと出来るわけないでしょ」とか思ったりして、「いやいや、なんか落ち着けてくれるはず、何せクリストファー・ノーランやで」とか期待して先を見ていく。NASA理論物理学者が出てきたり、ブラックホールでフライバイするから時間が加速してしまうとかいう、ちょーニッチな科学描写でSFオタク心をめちゃくちゃくすぐられながら「うひょー!これ「トップをねらえ!」で見たことあるやつだ!」とか適当にはしゃいで見てしまう(若さゆえのなんとやら)。R2D2C3POを足して二で割ったHAL9000的キャラクターたちが愛らしくてキュンキュンしたり、ワームホールを抜けた先の星々の探索では、心を病んだ先駆者たちとの鬼気迫る応酬とかでハラハラドキドキ、さぁどうやって落ちをつけるんだ?!

と思って見ると、なんと「俺たちが時間を超える事だったんだよ、そう、愛さ!」みたいな感じでぶっ飛んだ展開を最後の20分近くでかましてくる。そう、冒頭の重力は主人公たちが時間を超えて送ったメッセージだったんだ!

ということを、流石はクリストファー・ノーラン、場面展開や画作りの巧みさで迫るように映し出している。

そう、ここで冒頭の感想に行くわけです、「何故そこで愛ッ!?」。

重厚なハードSF的な書き込みとシナリオ展開でリアリティを醸し出しているところで、最後の最後にご都合主義的とも見える展開で物語を決着させてしまう。ここに見ている人たちの期待を悪い意味で裏切ってしまったんではないかと。最後の展開で感動できる人は前半の描写が緻密過ぎて退屈な気もするし、前半の描写が心地よかった人は、最後の展開に納得がいかなくなってしまったのではないかと。

でもよく思い出せば、例えば「幼年期の終わり」だとか「2001年宇宙の旅」とか、あの昔の長編SFというのは、宇宙に対する壮大な「何か未知ですごいことが起きるのではないか」っていう、憧れと言うか夢想があったような気がするのです。宇宙には何か不思議ですごいことが隠れていて、宇宙を旅すればそれらに出会えるという、漠然とした期待と言うか無邪気な憧れと言うか。

そういう、「ちょっと昔の宇宙長編SF」の映画だと思うと、これはそういう映画たちの正当な後継じゃなかろうか。攻殻機動隊ブレードランナーみたいな太陽系内SFでは、大スペクタクルよりも地味である意味では身近な(現実と地続きなというか)未来像と、退廃的な世界で問われる「人間とは何か」っていう話題が中心的だけれども、そういうちょっと冷めたSFでは味わえないセンスオブワンダーが、この映画にはあるような気がする。だからかわからないけれども、この映画を見た後、なんとなくハイペリオンシリーズを読み直したくなった。

無邪気に宇宙に思いを馳せることを忘れてしまった、「アポロが月に行ったこと」を嘘にしてしまう未来像の現実で良いのだろうかと、そう思わざるを得ない、良い映画だったと思う。

イヴの時間 を見た

「未来、たぶん日本。“ロボット”が実用化されて久しく、“人間型ロボット”(アンドロイド)が実用化されて間もない時代。」

という一行からこの映画は始まる。アンドロイドが普及し、日常に溶け込む世界。その中で主人公の向坂リクオは、自身のアンドロイドであるサミィが時折「寄り道」をして帰ってくることを知る。ログを追って辿りついた場所は、変わったルールのある喫茶店イヴの時間」だった。

「当店内では、人間とロボットの区別をしません ご来店の皆さまもご協力ください。ルールを守って楽しいひと時を。」

茶店で出会う「人々」との交流を通して、ロボットと人間の関係、そして「心」を繋ぐ物語が描かれていく。

最初は、「きれいな背景のわりに会話のテンポが不自然に速いし、画面も揺らし過ぎで、どうなんだろ」って思いながら見てました、正直言うと。ただ見ているうちに(慣れてくるのか)気にならなくなっていき、この物語が始終描こうとしてるある種のやさしさを感じ始めて、最後はなんとも言えない感動が広がった。全く持ってロマンチックな物語で、山もなければサスペンスもない、ある種見てて退屈とさえ言える展開でも、その醸し出すやさしさは物語として確かに描かれていたと思う。

ただこうやって受けた感動をつらつらと書いているだけでは、SFオタクとしてなんか悔しいので、このイヴの時間における「アンドロイド」について考えてみたい。

物語冒頭にことさら強調されるように、この世界では「ロボット工学三原則」がロボットの基本的な性質を表している。あまりにも有名なこのアイザック・アシモフの三原則を、この物語では面白い解釈をしている。アシモフにおけるロボット工学三原則は、ロボットの機能的制限を与えるための制約である。物語上ではこの制約を緩くするかきつくするかで目指した機能を持つロボットを動かす、という話があったりする。というように、アシモフにおけるロボット工学三原則は制約条件であり、それはロボットの暴走を防ぐため以上のものではない。一方、イヴの時間においては、ロボット工学三原則は「ロボットの定義」として用いられている。逆に言えば、それさえ満たされていれば彼らは「アンドロイド」であり、人間との違いは、ただこの三原則が守られているか否かで決まる。よってアンドロイドたちは、いわゆる「心」を持ちもするし、「個性」を持つことができる。

なので、この映画を見て「こんなのはロボットじゃない、人間だ。人間にロボットという名前と機能を与えただけだ」と解釈して、この映画はSFじゃない、と思うのも無理はない。そういう意味では、ハードSFとしてのロボットSFではない。ではハードSFという視点を捨てて、この映画を見てみると、この映画は「絶対的に違う他者との関わり」を描いた映画だ、と見えてくる(気がする)。ロボット達はロボット工学三原則という点において、確実に人間とは違うのである。一見すると人間と違いはなく、ロボットであるけれども、見分けがつかない。見分けはつくロボットであるけれども、「個性」があって「心」がある。そういう「全然違う」けれども、でも共通部分があって、それを通わせることが出来る。これは果たして、(イブの時間の世界の意味での)ロボットと人間の関係だけに当てはまるだろうか。

この関係性は、本当は「普通」の人間の関係性にも言える事ではないだろうか。一見して同じ、見た目は違う、そういう異なった他者との交流、それを描いているのではないだろうか。

そういう視点で見ると、このイブの時間という物語は、「他者との交流、関係性の構築に何が大事なのか」ということを描いているのではないだろうか。そしてその答えは「変わらず尊重する」ことなのだと、この物語は描いている。冒頭の「ロボットと人を区別しない」というのは、決して人間だと思って話す、ということではなくて、ロボットであれば制約があり、人間であればロボットではない、という「他者は絶対的に違い、その違いに配慮して、尊重して接する、分かり合う」ということではないだろうか。物語の中で、アンドロイドの少女がこんなことを言う。「見た目がそっくりでも中身はぜんぜん違う。似てるけど、ぜんぜん違うのよね。あなたは私をどう思ってるの?って、色々話してもっとわかってあげたい。だって家族だから。」そういう意味でこの物語は優しさに満ちていて、そして大切なことを教えてくれている気がする。

SFとして、ロボットものとしての完成度はどうかと言われれば、それは期待に応えられないけれども、楽観的でロマンチックな、それでも切実な願いのようなものがこもったこの甘くて優しい物語は、一度は見てみる価値があるのではないだろうか。特に、多様性の重要性が見直されている本日において。

2019/04/22 追記 下の感想を読み、自分の感想が小学生並だと気が付いて恥ずかしさで悶えてる。もっと勉強しなきゃ...。

小ミハイェル 無駄に長い『イヴの時間』の感想 memo.clockmilk.org