No (refractory) title : spectrally stable

本、アニメ、映画の感想。時々まじめに物理。ごくたまに日記。

Look-back on youth #2

ということで Facebook ノートサルベージ記事2つ目。

2016年4月28日

僕らはみんな、もう一人の自分を持っているのではないか、と、最近気づいた。

…ちょっとまって、逃げないで‼ そんな変な人だみたいな目で見ないで‼ いや、変な人なのは否定しないけど。

別に多重人格だ、なんてことを言っているわけではなくて、僕らには、別々の思考様式を持つ2つの自己があるんじゃないか、と最近ふと思った。その2つの一方は、こうやって言葉を使って何かを言ったり、考えたりする、この文章を考えている自分だ。この思考は紆余曲折したりふらふらしたりするけど、その道筋はしっかりと繋がっているのが分かる。どういう風に歩いたか解るから、どこどこの角を曲がってと言う風に、他人にその辿った道を伝えやすい。でも、しっかり歩いていこうとするからか、なかなか前に進まない。そのくせ、脇道に逸れて行ったり、袋小路に入ったり、しっかりしているようで、見えているのは足元だけの、言うなら「くそまじめ」な、そんな奴だと思う。

もう一つは、こうやって言葉を使って話してはくれない、どちらかと言うと体感で話しかけてくる、もしくは雰囲気だけを、まるで目くばせだけで教えてくるような、そんな不器用な自分だ。彼は所謂「直感」を教えてくれる自分で、非常に無口な奴で、気づいたことを明確にはしてくれない。「なんだか変だぞ」とか「そんな風な気がする」とか、曖昧で論理のつながらないことを、それとなしに、僕らに教えてくれる。こいつは非常に厄介で、たまに間違っていることもあるけど、こうやって言葉を使う自分よりも遥かに先の結論まで飛んで行ったりする。言葉を使う僕は、こいつは非常にまどろっこしい奴だな、なんて思ってしまうが、無口だけど頭の良い、いや、どちらかと言うと無口だけど純粋で誠実で、はにかみ屋の親友のようなもので、言っていることの意味を考えると、そこにはしっかりとした論理があって、まるでその一瞬に熟考したかのように思えてくる、到底この自分では考えつかないからこそ、割と尊敬している、そんな自分である。

この「直感」という友達は、実はそのまま何気なく生きているだけでは、なかなか友達になってはくれない。どころか、知らず知らずのうちに横やりを入れたり、歩いている道を突然変えてきたりする。ちゃんと彼に耳を傾けていないと、この友人は建設的なことを言ってはくれない。あまつさえ、こっちは足元見て歩ているのに、突然突き飛ばしてきたりする。大抵の人は(と言っても僕が授業を持った塾の生徒を指すんだけど)、多くは勉学の点で、この友人を叱って怒って怒鳴りつけて、あまり良い友人関係を築けずに、もしくは足元を見て歩く自分を嫌いになるか、そんな風に、この二人の仲がこじれてしまっているような気がする。お互いがお互いに無自覚にせめぎあい出すと、終には何が何だか分からなくなる。どちらも自分で、どちらにも良い点があって、お互いを尊重してやることが大事だと思う。

なんでこんな話をしているかと言えば、こうやって話しているのは言葉を使う自分だ、なんて最初に書いたけれど、本当は、この直感という奴のほうが自分に一番近い自分なのだ、と、そういうことを言いたかったからだ。

「何か変だぞ」と思う直感、「何か違う気がする」と思う直感、もっと言い換えるなら、そう思う「感情」が、より自分に近い自分なのではないかと思う。それは、時には非常に我儘だったり、論理的でなかったりするけど、実はそれが一番自分の思っていることで、それを否定してやっちゃかわいそうだと思う。なんでそんな風に思ったのか、言葉を使う自分が、その論理を明確にしてやることで、自分の思いを理解してやって、それに対する答えを考えてやる。そうして自分と話し合って、その時その時の最適解を考えていく。いろんな視点を持つことで、多様な理解や方法を考えられるとよく言われるかもしれないけれど、実は僕らはすでに2つの視点を持っているのだ。まぁ、お互い立っているところが同じだから、視点と言っても眉間ぐらいの幅しかないだろうけど。

なんだ、当たり前のことを言っているだけか、と思われるかもしれないけれど、こうやって「2人で1人の自分」という描像で自身を考えてみると、大事なことが見えてくるような気がする。というのも、いつも体を動かすのはこの言葉を使う自分で、だから、もう一人の自分を幸せにしてやれるのは、この自分だけなのではないだろうか。論理で考えた幸せが本当に幸せかどうかは、もう一人の自分に聞いてみないとだめなのではないだろうか。2人合わせて自分なのだから、もう一人の自分と話し合わなくては、そんな幸せは、変な言い方だけど、「独りよがり」の幸せじゃないだろうか。感情だけの幸せも、本当に幸せかどうかは、もう一人の自分に聞いてやらなくちゃだめだ。夫婦でなくたって、僕らはある意味他人と生きてる。なんで他人かと言われれば、もう一方の言っていることは、この自分には努力なしには解らないからだ。そのくせ、夫婦以上に最後まで寄り添う奴で、最後の最後まで一緒だ。他人を不幸にする権利がないように、この「他人の自分」も、不幸にしてやる権利はない。

だから、もう一人の僕が、今、一番解決したがっている問題を、これから頑張って考えようと思う。その解答を望んでいるのだから、答えてあげなくちゃいけない。

当面は、それを考え続けよう。研究の空いた時間にでも。