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本、アニメ、映画の感想。時々まじめに物理。ごくたまに日記。

心が叫びたがってるんだ。(2015) を見た

「心無いことを言う」と言われるように、誰だって取り消したい言葉があって、でも言葉というものは、一度発してしまって相手に届けば、二度と取り消すことは出来ない。 だから誰しも言わずにいることがあって、優しい嘘をついて、本当に言いたいことは胸にしまって、調和のために言葉を繕う。 そして、いつしか誰かのために繕った言葉で、自分の心も覆い隠している。

思ったことを言えば人は傷つくし、言いたいことを言っていれば社会は成り立たない。 みんなで手を取り合って輪になって、リズムを取り合って顔色を見合って、そうして均衡を保ってうまく生きていく。

それが大人になるってことだとすれば、この物語はまさに子供たちの物語で、この映画は正真正銘の「青春映画」だ。

(そして多分、例のライ麦畑の捕まえ役、になりたがってた彼が一番嫌いな映画だ。)

という前置きを置くと、この物語、自分のような「すれっからし」には眩しすぎたなぁ、という感想。 というか、ものすごく直球な映画なのだ。 子供たちが互いに衝突と協力を繰り返しながら、目標の達成を目指す。 その中で挫折しながら(しかもその挫折は悲恋という形をとるし)、立ち上がって前進していく。 互いに思いを共有しながら、時にそこから自身を見直す。 仲間たちとの相互作用の下で、自分とは何かを見直していく。

まさに王道の青春物語。 及ぶことの限定された子供たちが必死にあがいて立ち向かう物語。 それはまさに青春というやつだ。

だからこそ、多くの人がこの映画を絶賛したと思うし、感動を与えられたと思う。 捻りのないド直球だからこそ、横道にずれない王道だからこそ、多くの観客のど真ん中に打ち込まれたのだと思う。

え、捻りがないわけない? ヒロインが悲恋に終わるなんて王道じゃない? 絶対にあそこは成瀬・坂上カップリング一択だって?

いやいや、あの展開はむしろ入れざるを得ない部分なんですよ。 というか、ああいう形をとれるのはやはり「おかまり」のすごさですよ。 この物語で重要なパートである、言葉を紡ぐことで傷つき、それでも受け止め前進する、という部分を「爽やかに」作るにはあの形しかない。 しかも、それがある種の「挫折とその克服」として描くことで、この物語を単なる恋愛、過去の清算自己実現の物語に終わらせず、「許容と成長」っていう、さらなる青春の王道をぶち込めたわけです。

思い返せば、この物語は徹底的に爽やかに作られている。 どろどろとした(或いはしそうな)部分は、意図的に省略されたり、ミュージカルの形をとって成形されている。 クラスの生徒たちは協力的にミュージカル制作に参加している(ように)描かれるし、成瀬の恋はミュージカルやある種の寓話的表現と演出を合わせて、より物語的に描かれている。 まぁそもそも、ミュージカルとはそういう物ではあるのだけど。 この部分をもっとドロドロしたように描けば、多分とらドラになってる。

こうした様々な技巧や設計を通して、見るもおぞましい人間臭さは脱臭されて、清涼飲料水のような青春の香りだけが残される。 そういう意味では、君の名は。と本質的には同じ代物で、つまりはマスに向けた話で、だからこそ、多くの人に届いたのだ。

多くの人に届くことは良いことだ。 それが商業主義的には目指すべきことだし、たまにはポカリスエットだって飲みたくなる。 でも自分のような人間には、やはり物足りなさを感じてしまう。 無邪気にコミュニティに属することが出来ない陰キャな自分には、この物語は眩しすぎる。

でもそういう、「これは自分には眩しい」と思わせながらも、結局物語として、映画として楽しめてしまったことは疑いようのない事実であって、それはそれで満足なわけだから、やっぱりオタクって面倒くさいなと思う今日この頃でした。