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本、アニメ、映画の感想。時々まじめに物理。ごくたまに日記。

1917 (2020) を見た

戦争映画を描くとき、「戦闘」を映すことは必然的とも言える。 戦闘という場面は戦争における命の軽さを、人命が数字として捨象されていく様を、そして日常とは違うという意味での特殊性を、恐らく最も効果的に、そして象徴的に訴えかける。

しかし戦闘を描写するとき、つまりは戦闘を映画として映す時、実は無意識にそれを客観として描いていないだろうか。

戦闘という場面を映すために、カメラは戦闘を眺める視線として機能する。 それは映画という媒体、撮影するという行為そのものが持つ距離感であって、その全体像を捉えようとする程、必然的にその画は客観性を帯びてしまう。

結果、多くの戦争映画において戦闘とは「異常な状態」として描かれ、観客の主観とは全く遠い場所に、客観的に知覚された状態として戦争が構築される。つまり僕らは戦争映画を見る時、その状態を俯瞰して認識する「マクロな視点」から眺めざるを得ない。

戦争を戦闘として描くこと。それをカメラで捉えること。それは映画を見る人々の視点を否応なしに俯瞰へと追いやってしまうということを、しかしサム・メンデスは知っていた。

それを自覚した彼は、全シーンをワンカットに描き、しかもその視点を主人公に密着させた。見る人の視点をミクロに釘付けにする。つまり戦争を眺めるマクロな視点を、徹底的な視線の矮小化で排除し、「戦争という背景に生きる個人」を残した。

背景として戦争を描く。 内臓の抉れた死体が無残に打ち捨てられていること。 それが腐敗して原型を崩し、ハエがたかって悪臭を放つこと。 砲弾によって地面が抉れ、家々が瓦礫の山と化していること。 川に浮かぶ死体が流木に溜まり、内臓が腐敗して体内にガスを充満させ、青白く膨れ上がれ浮かんでいること。 人が人を殺すということ。

そのすべてが、個人を取り巻く遠景として描かれる。 意図的にその醜さが注目されるわけではなく、単に「それがそこにあるだけ」として死が描かれる。

その結果、戦闘を戦闘として映すことよりも遥かに主観的に、映画を見る観客を戦闘の中に導いた。そしてそれは、観客に「戦争とは何か」を主観的に問いかける。

勿論、この映画は直接「戦争の意味」とか「戦争の悲惨さ」とかを訴えかけているわけではない。この映画は別に反戦を掲げているわけでも、戦争の英雄譚をしたいわけでもない。ただ戦争を徹底的に遠景とする。つまり装飾や服装、汚れやケガ、瓦礫や荒廃した市街といった風景を「空気感」として緻密に描く。そこに風景であること以上の意味はない。

映画前半で主人公ウィリアム・スコフィールドは、ワインと勲章を交換した話を相棒のトム・ブレイクにする。ウィリアムは言う。「故郷に帰る気はない」と。彼は故郷を好んでおらず、帰還して初めて意味を持つ勲章よりも、喉の渇きを潤すフランス兵の持つワインの方が、価値を持つのは当たり前だった。

伝令を終え、木に寄りかかり彼は家族の写真を眺める。終わらない戦争。戦いに意味なんてなく、そこに英雄譚はない。彼は逃げてきた故郷を、海を渡った戦場で思い出す。生きて帰りたかった相棒を思い出し、彼の死に涙した兄を思い出す。

主人公の故郷への気持ちの変化と、彼の生きようとする生き様を描いた映画だ。戦争は遠景にあるように設計されている都合上、結果的に主人公の事情を近景に描かざるを得ない。でもだからこそ、戦争に生きるということの意味を、こうまでも緻密に描けたのではないだろうか。

個人的な感想としては、川を漂いながら桜が舞うシーンと、そこに現れる水死体が一番好きだった。やっぱり桜には死体が似合う。儚さと美しさと、そしてそれと共存するどこか虚ろな悍ましさ。そこに死と生の奇妙な関係性が描かれているようで、なんとはなしに心に響いた。

久しぶりに映画という媒体を意識して作られた映画だと感じた。 人を選ぶ作品だ思うけれども、映画を見たい人は是非見てほしい。