No (refractory) title : spectrally stable

本、アニメ、映画の感想。時々まじめに物理。ごくたまに日記。

魂のゆくえ (2018) を見た。

かつて1人の敬虔なキリスト教信者 --そして後に偉大な実存主義哲学者として認識される青年-- は``死に至る病''という存在を見出した。

死に至る病とは自己実現不能性から来るものだ。 自らが目指す姿、こうありたいという姿に、外因的であれ内因的であれ到達することのできない状態。 それは結局のところ自らを取り巻く環境に対して自ずから選択せねばならないという、人間の本質的性質に起因するものだ。

そして死に至る病とは、いわゆる``絶望''として知られている。

死に至る病に侵されたとき、つまり``絶望''に落ちた時、ではそこから救われる術はあるのだろうか?

1800年代の初頭までその存在を明示されていなかったこの病について、名前をつけ分析したキルケゴールの出した処方箋は「信仰」だった。 しかし果たして、発展した科学を享受することで流布された理性主義的な世界観がはびこる現代において、信仰はその処方箋となりえるのだろうか?

思うにポール・シュレイダーのテーマは、少なくとも「タクシードライバー」とこの「魂のゆくえ」においては、この``死に至る病''を現代的に描き、考察することだったんじゃないか。

インタビューで彼が述べているようにこの映画はシュレイダーの人生の集大成であるし、加えて構成としては彼の有名な「タクシードライバー」のプロットでまとめられている。 ただ「タクシードライバー」と違って物語にはある2人のキャラクターの対比を通して``死に至る病''を描き表現している。

1人は言わずもがな、主人公のエルンスト・トラーだ。ニューヨークにある「First Reformed」教会に努める彼は伝統を重んじる敬虔な信徒だ。 彼にとって信仰は自らの自己実現であり、そしてそのために行動してきた。愛国的伝統を重んじ、彼も従軍牧師として貢献してきた。 日々熱心に教会業務に従事し神の教えを説いてきた。しかしそんな彼にも死に至る病の種がある。 自らの息子を伝統に従って軍に入れた結果、イラクで戦死させてしまう。彼は妻と別れ First Reformed 教会に努めることになった。

もう一方は、環境保護活動に熱心な、そしてそれを誰よりも深刻に捉えているマイケルだ。 彼は妻メアリーとの間に出来た子供を産むべきかどうか悩んでいる。 マイケルは論文といった科学的根拠に基づき、このままでは近い将来人間は地球に住めなくなる、と確信している。 そんな現状、つまりこのままでは確実に生きづらい、生きることが不幸になりうるような状況になるにも関わらず、そんな未来に子供を送り出して良いのだろうか、と彼は悩む(つまりは所謂、反出生主義ってやつだ)。

この2人は特徴的な対比だ。 トラーはキリスト教を信仰しているが、マイケルはそうではない。 むしろマイケルは科学を信仰し、トラーは科学の結論を重く受け止めていない。

その祖語は冒頭にある、マイケルがトラーに出産のことを相談するシーンですでに明らかだ。

トラーは科学がこれまで多くの問題を解決してきたことを述べ、そして一方で、もしもこの問題を解決できないのであるならば、キリスト教的な来世に救いを見出すことも一つの手だと諭す。 重要なのは絶望しないことで、そしてそれはマイケルの世界の捉え方の問題で、子供の命は喜んで受け止めるべきだ、と彼は言う。 しかしトラーの回答はマイケルにとっては意味をなさない物だった。なぜなら、科学という宗教が予言するのは、いわばこの世の終わりだ。

そしてこの2人は、同じように``死に至る病''に侵される。

マイケルは死に至る病によって自らの頭を吹き飛ばして自殺する。 ここで重要なのは、彼は子供を殺すことに、そしてそうならなくてはならない現状において自殺したわけではない。 彼が自殺する前、妻のメアリーはガレージにてマイケルが作ったと思われる自爆ベスト(劇中ではsuicide vest)を見つけ、トラー牧師に渡している。 つまり、マイケルは「タクシードライバー」のトラヴィスのように、そしてトラーとの対談の中で殉教の話をしたように、自らの思想のために命を投げ打とうとしていたのだ。 それが彼の自己実現の形であり、彼が求めた生き方だった。

しかしそれは、自爆ベストが奪われる、という形で頓挫することになった。 自らの意思を実行できない。 自らの価値観に徹底的に従い、それを実現するということが不可能であることから、彼は自殺する。 彼は環境保護という信仰に殉ずることが出来ないが故に自死を選んだ。 それは彼にとって、殉ずることが出来ないということが、罪だったからだ。

一方トラーは、マイケルとの対談によって、自らの信仰に対する疑念が深まる。 トラーはマイケルの遺した資料を調べるうちに、メガチャーチ Abandon life 教会を通してFirst Reformed 教会を支援している企業BALQ社が、環境保護を軽視している、という事実を知る。 彼はAbandon life 教会のジェファーズに、「神の創造物たる自然を破壊することは、信仰に反するのではないか」と問いかける。 しかしジェファーズは、トラーがマイケルにそうしたように、「教会を運営するための資金」という資本主義から、つまりは全く別の価値観から、この問題に回答する。

そしてトラーは自らの信仰のため、記念式典でBALQ社の代表の爆殺を決心する。 しかし当日、親睦を深めかけがえのない存在となっていたメアリーが式典に来ていることを知ってしまう。 自爆によって彼女を巻き込んでしまう、という事実を前にした彼は、ベストを脱ぎ、代わりに有刺鉄線を体に巻き付け、洗剤を飲んで自殺しようとする。

つまりここまでは、トラーはマイケルと同じ道をたどっている。 殉教という形で自らの価値観に徹底的に従う。 そして、それによる自己実現を達成する。 しかし、それが何らかの原因で頓挫してしまう。 自らの価値観によって選択すべきものが選択できない。 それによって起きる、自己嫌悪と罪悪感。 よって自殺という手段でもって自らを罰する。

しかしトラーはマイケルと違う結末を迎える。 彼が毒を仰ごうとした瞬間、メアリーが姿を現す。 彼がその姿を目にした途端、手から毒は滑り落ち、彼らは抱き合う。 記念式典の聖歌を背景に、彼らは熱い抱擁と長いキスを交わし、

そして映画は唐突に終わる。

BGMもぶつ切りに、突然の暗転で終わるこの映画の結末からして、「結論は個々人に任せる」と言わんばかりだ。 トラーは結局、自らの価値観を捨てメアリーからの愛に答えることで生きる、愛に答えるという価値観で、自らの存在証明を実現する。 即物的で、俗物的で、なんとも直情的で、なんとも安易なんだろう。

でも、じゃあ実際、そういう解答以外に何かありえるだろうか、と聞かれると、多分それ以外はないんじゃないだろうか。

理屈で生き続けることは難しい。

この世に正しい論理なんていう物はなく、自然法則以外にその妥当性を証明する方法もない。 科学は「自然の斉一性」という診断方法があるから良いものの、哲学的な問いにはそんな大層なものは用意されていない。 多くの哲学的主張だって、単に「恐らく他と比較して妥当だろう」ぐらいの根拠でしかなく、そこに確固たる価値観があると思う方が間違いだ。 そんな中で一貫性のある生き方を要求する方が、間違っているんじゃないだろうか。 人はこと(もしかしたら日本人だけとか、まじめな奴だけとかあるかもしれないけれど)、一貫性のある生き方が美しいし、価値あるものだと思いがちだ。 でもそういう、殉ずる、という行為の美しさに反して(というかその美しさ自体が人為的なものであるのだけど)、生きるというのはもっと泥臭いもんじゃなかろうか。 考えかたなんて数年で変わるし、状況や前提でいくらでも翻ったりする。

この映画のなかで、多くの価値観がそれぞれのキャラクターを通して示されるけど、一番いいのは彼らのすべての価値観を認め、そしてすべての価値観を比較して取り込む、ってことなんじゃないだろうか。 それは諦めと表裏一体かもしれないが、人生を生きる上ではうまい生き方なんじゃないかと思う。

結局のところ、一つの価値観で生きていけるほど、世の中は``きれい''じゃないってことではなかろうか。

この映画、というかポール・シュレイダーは、おそらく生い立ちからして、ものすごく真面目に価値観という物の一貫性を考えていたんだろうなと思う。 だからこそ、価値観を突き通せない、自らの主体的な選択の指針が見いだせない、という状況に敏感で、それ故にこういう映画を撮って来たんだろう。

何気なく生きている上ではなかなか直面しないような、それでも考え抜く必要のある問題を題材にした、力強い映画だと、そう思った作品だった。