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本、アニメ、映画の感想。時々まじめに物理。ごくたまに日記。

眠れない #1

充実した一日を過ごせば、幸せに眠れる(逆もしかり)

冒頭はレオナルドダヴィンチのセリフらしい。 カッコ内はもちろんオリジナルです(蛇足)。

昨日おやつ時に飲んだコーヒーのせいか、めちゃくちゃ寝つきが悪い(やわな体)。 明日からの仕事のためにもひと眠りしたいと頑張ったところでどうしても眠れず、仕方がないのでツイッターを眺めていた(いちばんやっちゃだめなやつ)。 案の定テレビ放映された天気の子についての感想ツイートがわんさか降ってきて、それをぼーっと話半分に読んでいた。 そうやっていろいろ読んでいるうちに、「あれ?もしかして天気の子で語ることって実はもともとなかったんじゃないか?」なんてふと思った。

というより、天気の子の論理そのものを語ること自体は、もはやセカイ系十八番のコントラバーシャルな話が出てくるだけなんじゃないか。 「社会が見えてない」だの「いや、あれは大人たちが受け止めたんだ」だの「少年少女にそんな選択を押しつける社会が狂ってる」だのという話が展開される中、そもそもその議論の先に何が見えてくるんだろうな、となんだか我に返ってしまったような心地になった。

もちろん、その議論自体に意味がないとは言わないし、というか意味自体はものすごくある話だとは思う。 だって上の話って例えばマイケル・サンデルの例の議論でも挙げられている話だし、資本主義と社会主義(あるいは共産主義)っていう、水と油のごときイデオロギーがゆるく混ざってきた現代では避けて通れない話ではなかろうか。

とはいえ、その問い自体に物語の形で答えが出るんだろうか?と思うのです。 概念的なというか、理想化された実験環境で議論するべき事なんてもはややりつくされていて、あとは現実的なディティールの問題になっているのではなかろうか。 現実的な、つまりは、ものすごく無力な人間たちがそういう問題にどうやって取り組んでいくべきなのか、みたいな話をしたほうが、よっぽど何かを言えるんじゃないか、なんて気がしてきた。 あるいは、(それこそ語り尽くされたような)そもそもセカイ系の構図そのものを選ぶこと自体の意味、例えばそれ自体が意図せず行う捨象の意味するところだとか、それが受け入れられる現代観だとか(いやそれ自体ももう食傷気味かも)、あるいはどうしてそのセカイ系の構図を持ってきたのか、ということを考えた方が意味があるんじゃないか。

と、ここまで書いてきて、そういえば伊藤計劃が似たようなことを言っていたな、と思い出す。 伊藤計劃新海誠の『雲の向こう、約束の場所』の批評を読んで、「これ以上のセカイ系を分析して何か面白いことが言えるのかな」みたいなことを言っていたような(うろ覚え)。 この話、よくよく考えると伊藤計劃らしいな、という気がしてくる。 彼は、そんな個人の気持ちだとか動機だとかにはあまり興味がなくて、というよりむしろそれらが形成される社会の在り様、もしくはそれを引き起こす技術的な背景に興味があって、その正義だとか倫理だとかは問うてない。 というか、あまつさえ人間なんて機能の塊だと思っているし、ハーモニーじゃ「そんな感情なんていらねぇ」みたいな結論に達しちゃう辺り極まってる。 人間の感じ方なんてむしろ社会側が形成しているのであって、そしてそういう社会は技術がもたらすのであって(産業革命が市民と貴族の構図を変えて見せたように)個人の正義や倫理観それ自体を問うことに、彼は面白さを見出していなかったように思う。

自分はそこまで突き抜けられないけれども、ただ「語りえぬことにはなんとやら」という感じで、むしろ未来がどうなっていくか、むしろどうなっていくと面白いのか、という話をすることの方が面白いんじゃないかと、昨日の晩は思った。 でも後期ウィトゲンシュタインは違う事言っていたような......。 聞きかじりのうろ覚えはたちが悪い。

三日坊主とか言った舌の根も乾かないうちにこんな雑感を書きなぐってしまったけど、むしろこの勢いだと今年の中盤辺りで失速しそう。