No (refractory) title : spectrally stable

本、アニメ、映画の感想。時々まじめに物理。ごくたまに日記。

狂気の沙汰も

The War of All Against All

なかなかに気分が重い。 やりたくない、やりたくないと言ってTwitterに逃げてれば、そりゃ仕事が進むわけでもなく、ただダラダラと時間が過ぎていく。

自分のTwitterにはリストがたくさんある。 クリエイターを集めた「絵師など」、ミリオタの類を固めた「ミリオタ関係」、テックの意識高い系を集めた「技術系」、エトセトラ、エトセトラ。

このフォローせずにリストに入れておくというのが、案外精神に良い。 気持ちが弱っている時というのは、強い言説に過敏に反応してしまったりして、息抜きのつもりが逆に疲れてしまったりする。 リストに入れて隔離することで、いわば精神汚染を未然に防いでいるわけである(ひどい言いよう)。

そんな風にTwitterを眺めていると、例の京アニ事件の進展だとか、あるいはデモ隊のアメリカ議会乱入事件のツイートだったりが目に入って来る。 京アニ事件については、どうやら何でもない日常のワンシーンがパクリだったから、という主張だったようだし、議会乱入では発砲で人が亡くなったらしい。 どちらもやるせないなと思うと同時に、だけどなんだか、どこか達観している自分がいる。

いや、達観というよりも、どこか不謹慎にも、安堵に似た気持ちを感じている自分がいる。 でもこれは愉悦というわけでもなくて、エロ・グロ・ナンセンスだとか、そういう憚られるような邪な趣味の話でもない。 むしろ人が理不尽に死ぬのは嫌いだし、ましてや喜ぶことでもない。 そりゃミリタリーは好きだけども、それはむしろ極限状況で要請される効率化された機能美に萌えているのであって、人死にを楽しんでいるわけじゃない。

じゃあ、この気持ちは何かと言えば、それは例えば、あのホアキン版ジョーカー終盤30分を見ている時に感じている、あの気持ちだ。 あるいは、ブラッドダイヤモンドのワンシーン。 夜空の下、赤々と燃え盛り、RUFの兵士たちが狂喜乱舞するフリータウンを眺めている時のような、あの気持ちだ。

そこに、僕はある種の自由を感じている。 後ろ暗くて、後ろめたくて、誰にも誇れない、だけど確かな自由を感じている。 そんな自由の、解放感を感じている。

無法と自由は違う、なんていう人もいるけれども、でも本当の自由というのは、きっと何もかも失った時のことを言うんじゃないだろうか。 ミシェル・フーコーが、人間は自由という刑に処されている、と言ったけれども、彼も指摘したように、そこには束縛がある。 社会との関係性や自分の未来像。 なりたい者や守りたいものとの関係性。 そんな束縛から、フーコーの言う自由は逃れられない(ってアンガージュマンを解釈してたけど、多分誤解)。

もし束縛もすべて失って、それが辛うじて繋ぎとめている社会との絆も捨て去ったら。 多分その時、人間はある意味本当の自由になってしまう。

何も持たないがゆえに、何にも縛られない。 何にも未練がないからこそ、何にも捕らわれない。 誰にも求められないからこそ、誰をも必要としない。 何もないからこそ、何も必要ない。

そんな自由。

ホアキン版ジョーカーで一番安堵するのは、彼が幻想の彼女と心を通わせるシーンでも、ましてや抱擁するシーンでもない。 ほっと息をつけるのは、彼が彼の母親を殺してしまった直後だ。 彼が守ろうとした最後の一人で、彼を「社会」に繋ぎとめる最後の関係性。 もう何も彼を縛ることはない。 誰も彼を必要としないし、誰も彼を求めたりしないし、そして誰も気に留めたりしない。

そうなったとき、僕は奇妙な安心感を得てしまった。 あぁ、もう何をしても彼は苦しまない。 なぜなら、もう彼を縛るものはないのだから。

全てを失い自由になった彼がすること。 そんな彼は、身軽になった彼は、「見ようとしない」彼等に、見えない人間がいることを突きつける。

暴力という手段でもって。

現代の暴力は、理想的には人間を等しく同等に扱える。 真っ先に引き金を引いたものが、力の如何に関わらず生き残る。 そんな世界では、もはや人々は等しく無力で、等しく強くなれる。

そんな自由を、僕はあの悲惨な事件を見て感じてしまう。 まったくもって不謹慎だ。 でも同時に、あの事件に対して「馬鹿げてる」と言ってしまうような、そんな厚かましさを僕は持てない。 馬鹿げている、ということ自体が彼らを自由にしてしまう、そんな無関心にはなりたくない。

ここまで書いてきて、「もしかして俺、病んでんじゃないか?」と思うわけだ(というか「ヘラってる」っていうんじゃないか、これ)。 まぁ追い詰められているから、さもありなん、という感じではある。 とはいえ、こういう精神状態じゃないと考えないこともあるし(世の中に対する恨みつらみとか)、時々はあってもいいかもしれない(いや良くないだろ)。 勝ち誇っている時に感じられないこともあるわけで、その時々の気分もちゃんと(冷静に)見つめて置こうじゃないか。 出来るとは言ってないけれども。

いれた風呂が冷めきってる。 もう少し落ち着いたら、ブラッドダイヤモンドの感想文を書こう。