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本、アニメ、映画の感想。時々まじめに物理。ごくたまに日記。

Several Realities in Isekai

審査が終わった

ということで、完全に自由を謳歌している。 アニメも映画も見放題。 小説だって読み放題。 ……のはずだったのだけれど、実際は提出した卒論を加筆修正、追加計算を加えて出版しなくてはならないため、完全に終わったわけではない。 とはいえ、学位を取る、という点においてはほぼ終わったも同然なわけで、そういう意味では全くもって終わった気になっている。 そのせいで出版論文のための計算もなかなか進まない。 新しくいくつか小さなコードを書き足さなくてはいけないにもかかわらず、いつも画面にはdアニメストアTwitterが開かれている。

……これは行けない。 このままでは何にも終わらない。 何がいけないのだろうかと考えてみると、これはあれだ、多分体力が落ちたせいだ。 何せ議論に集中できる時間が明らかに短くなっている。 机に向かう時間は目に見えるほど少ないし、途中でTwitterに逃げてしまう。 もちろんやる気の問題だってあるのだろうけど、根気強さっていうのも大事なのだ。 こればっかりは体力勝負だ(というかそもそも研究というのは体力勝負だ、と御大もおっしゃってたっけ)。

そんなわけで、最近は毎日一時間近く散歩することを決め、とぼとぼと付近を徘徊している。 この場合の散歩には、目的地というものは設定されていない。 足の向くまま気の向くまま。 とりあえず歩いていくのだ。 大体風景が変わっていけばいい。 風景の変わる中で、一定のリズムを刻む運動の中で、ぼうっと適当なことを考える。 歩きながら考えていると、なんだか考えがまとまっていくような気がする。

歩きながら考えることは、大抵やらなきゃいけないことだったり、もしくは将来だったり、あるいは最近見た映画やアニメのことを考える。 今の状況ではもちろん物理を考えるべきなんだけども、前述した通りやる気も何もないので、今はアニメのことをよく考える。 そして今日だったら、無職転生っていう異世界転生ものアニメについて考えていた。

無職転生。 このアニメは、もちろんご存知の方も多いかもしれないけれども、最近流行りの異世界転生ものの走りだそうだ。 いわゆる「なろう小説」のなかで比較的長く連載している作品らしく、それは言い換えれば、あの栄枯盛衰の激しい小説投稿サイトにおいては、多くの根強いファンがいることを意味している。 そういう小説群をあまりよく知らないし、詳しく調べたわけではないのだけれど、少なくともこのアニメにおいては、ものすごく期待されていることがわかる。 キャラデザが良いだけではなくて、一つ一つの作画芝居が丁寧だし、書き込みも意欲的だ。 作画のスタイルも、これまでアニメ化された異世界ものと比較してみると面白い。 コメディタッチでコミック調な作画ではなくて、書き込みと陰影による情報量のある描写、つまりはよりリアルに寄せた雰囲気をもった作画になっている。 それがファンタジーとしての異世界ではなく、この世界との地続きな存在、実在としての説得力を持った異世界として描かれている。

実在を感じさせる説得力。 それが異世界転生ものにもたらすものはなんだろうか。 あり得るかもしれないという期待感だろうか? 夢の具現化への高揚感だろうか?

自分の場合、リアルな異世界として描かれたこの無職転生を見た時、なぜだか、どこかもの悲しい、言いようのない寂しさを感じていた。

例えば、リアリティを持つ異世界を描いたアニメとして、灰と幻想のグリムガルはどうだろうか。 あの作品でも、風景や人間を緻密に描き、やはり情報量を増やすことでリアリティを醸し出していた。 そこで描かれいたのは、それまで気楽でご都合主義的だった異世界転生ものとは異なり、弱い敵キャラ、例えばゴブリンだって「殺す」ことすら難しい世界だった。 アニメ灰と幻想のグリムガルで描写されるゴブリンは、ゲームのような無機質な存在ではなく、血肉を伴った「動物」として描かれる。 その世界観は主人公たちすらも例外なく、平等に血肉を持った動物として描写する。 そしてその帰結は明快で、主人公たちに平等な死をもたらす。

その意味で灰と幻想のグリムガルは、異世界転生という設定そのものは大差なかったにも関わらず、過酷な現実に立ち向かうという形で現実世界を描いていた。 この場合リアリティがもたらしたのは、過酷さという意味で現実と地続きな世界だった。

では無職転生はどうだろう。 同じように情報量のある描写。 血肉のある人間としてキャラクターが描写される世界。

しかしそこには、現実と地続きな過酷さはない。

転生先の両親は、大富豪とは行かないまでも、不自由ないほどには富んでいる。 周りは温厚な人々に囲まれ、師に恵まれ、そして機会に恵まれている。 転生前の彼のドン底の人生に比べるまでもなく、幸福で、満ち足りた人生が描かれる。

リアリティは描写される風景だけではない。 彼に特別な才能がある、というような設定は描かれない。 彼には、もちろん両親の血筋はあるかもしれないが、むしろそれ以上に才能がもたらされるわけではない。 しかも、もたらされた才能は、天才というものでもなく、さらに「生まれながらに自意識がある」ために恵まれた機会で能力が伸びるに過ぎない。 その意味でも、この作品には極力ご都合主義を廃しよう、という意図を感じる。

そういう、描写というか、作品としては申し分なく丁寧で、きちんと描かれていて、それはきっと素晴らしくて喜ぶべきことなのだとは思う。 でも、それらが最終的にもたらしたものは、自分にとっては「もの悲しい寂しさ」だった。

なぜなら、それら緻密な描写が結果的に「そうあって欲しかった世界を痛々しく切実に求めている」姿を描いえているように思たからだ。

「そうであって欲しかった世界」。 格差なんてなく、生まれ持ったもので差別されることなく、取り戻せない人生なんてなかった世界。 そんな世界で、真っ当にやり直したい。 ただ、人生を真っ当にやり直したい、という思い。 誰かときちんと関わって、きちんと自分が認められて、きちんと挫折して、きちんと乗り越えていく人生。

そしてそんな願いが、異世界転生、という形式を借りて描かれる現実。 それが夢想に過ぎない、という事実。

そんな現実に、そんな現実世界の救われなさに、僕はもの悲しくなった。

もちろん、これが単なる思い込みだっては確かだし、偏見と深読みのせいでレッテルを貼っているだけ、というのもわかる。 作者は必ずしもそんな不遇な思いをしているわけではないと思うし、このアニメを作っている人たちだってそんなことを言いたくて心血を注いているわけではないと思う。 純粋に異世界で生活することのリアリティを描きたいのだと思うし、それが確かに実現している。 でもその事実が、どうしてももの悲しくなってくる。

まあ、単なる考えすぎなんですけど。

時間はある。本当はない

ということで、要は今のところ時間がめちゃくちゃ取れている、というかやりたくない仕事以外はやることがないので、実質的に時間がある。 そんなわけで、アニメをみたり小説を読んだりしているのです。 また4月から時間がなくなるんですけど。 ひとまず伊藤計畫が推してたディファレンスエンジンを読み切ろう。 この感想も書きたい。 あと、なーんかまともな心理学史を学ぼうと、サイエンス社の本を買ってみた。 こっちで読んだことも備忘録的に書いていこう。 意外に面白くて、メモしておきたいことが色々ある(フェヒナーの法則だとかスティーブンスの法則だとか)。

時間があるうちに楽しんでおこう。 とにかくは。