No (refractory) title : spectrally stable

本、アニメ、映画の感想。時々まじめに物理。ごくたまに日記。

シン・エヴァンゲリオン劇場版:|| (2021) を見た

いつものごとく、ネタバレありです。ご了承を。

端的に言えば、結局のところ次の言葉でこの話は要約される。すなわち、「たとえ月並みなことであっも、それが真実であることに変わりはない」って話だ。

シンエヴァで語られることは、もちろんSF的衣装や描写、表現に新しさはあっても、そこで語られたことはものすごく月並みなことだった。

人は孤独には生きられないこと。苦しいときは手を取り合って助け合って生きていくしかないこと。価値観は多様だということ。理屈だけでは生きられないということ。みんなエゴがあって、だけどエゴがあるだけじゃなくて、そこには優しさだってあること。それがたとえコミュニティへの帰属から発せられる便宜的なものであったとしても、それがやさしさであることに変わりはないということ。大人はその経験から示唆を富むことも言うけど、その過去から下らないことを言ったりすることもあるということ。親の顔を伺うなんて下らないということ。親なんて実はたいしたことないってこと。みんな心を持っていて、みな自分の理由を持っているけど、だけどただそれだけで生きているんじゃないってこと。まずは生きるために頑張り続けること。答えなんてないこと。だからこそ、過去を背負って未来を見て、ただ歩み続ける、それが生きるということ。

そういうただ月並みなことを、これでもかというほど何度も描写する。それがこの映画だったと思う。 それはなぜかと考えると、旧劇やテレビ放送版を振り返って思うのは、かつてはそういう月並み”じゃない”答えを探していたから、なんて思う。

コミュニティから疎外された(と少なくとも感じている)状況で、どうやってその生を肯定するか、ということを考えていたんじゃないだろうか。

人が生きる理由を極論すれば、その大別は2つあって、「自分のために生きるか」「他人のために生きるか」だろうと思う。 他人のために生きる。すなわち共同体に益する存在としてその生を全うする、という生き方はかつての主流だったように思う。 もちろんそのかつて、というのは宮崎駿世代のことで、そこでは他者と関係して生きていくことが前提だった。

でも世の中には、そういう理由を求めない人間もいる。そういう彼らの生きる意味、人生観が、ゼロ年代の空気感だったのかもしれない。 例えば初期新海誠のように。

そこは一人で、他者との関係性から外れたところで、自分自身が生きる意味を求める世界観。 他者と交流することから外れて生きる、内省とともに生きる生き方。 その世界観で生きていくためには、どういう価値観があればいいのだろうか。 そういうことを、きっと考えていたんじゃないだろうか。

テレビ放送版、旧劇、そして序破Qの碇シンジは、少なくとも彼の主観的に、孤独な存在だ。 肉親という生まれた瞬間から持たざるを得ないコミュニティとの関係性が希薄で、そして友人からも遠ざかっていく。 周りの人間はただその職務からいるのであって、それは単に彼が彼である必要もなく、ただ必要に迫られて交流しているに過ぎない。

誰一人、彼を属する共同体に向かい入れるわけでもないし、さらに悪いことに、彼自身がそれに属そうとしない。 そんな中で、彼が生きる意味、存在する意味ってあるのだろうか。それはどこから来るのだろうか。

でも結局のところ、新海誠庵野秀明も、きっとそこに答えを見いだせなかった。あるいは、やはりそうではないという解答に行き着いたんだと思う。

人は一人では生きていけない。そんな月並みな言葉が、結局のところ真実であるなんて、そんな月並みな答えにたどり着いたんじゃないだろうか。

この空気感は、きっとポスト東日本大震災の空気感だ。 跡形もなくなった世界で、ただ生き残った人間が、肩を寄せ合って生きていく。 じゃあなぜ生きていくのかと言われれば、それは生きてほしいと願う人がいるから。 生きられなかった人間が、生き残った人間が、そう願うから。 だから人々は、今生きていることを肯定し、そして生きている他人を尊ぶんじゃないか。

そういう、月並みだけど、でも真実であることに変わりはない答えが、結局のところ真実なんだと、結論したんじゃないだろうか。

というのが、きっとこの映画で語っていたことなんだろうけど、でも、なぜだかその答えに若干のもの悲しさを感じている自分がいる。

じゃあ無職転生の主人公は、やはり救われないんだろうか。 他人と関われなかった人間は、結局消えていくしかないんだろうか。 アーサー・フレックは、やはり引き金を絞るしかできないのか。 共同体とともに生きる、という価値観の前提に、他者に受け入れられるという最低限の「性能」が求められる、その事実はどうすればいいのだろうか。

碇シンジは、結局愛してくれる人がいた。 それは生まれた時から存在する肉親の愛ではなく、葛城ミサトの愛のおかげだった。 あるいは、彼を取り巻く友人の、彼を取り巻く仲間の愛だった。

じゃあ、愛が得られない人間はどうするのか。 希薄な関係性しか持ちえない人間に、そんな愛は望めるのか。

なんてことを考えていると、この問いに答えなんてあるのか、という気持ちになるし、結局のところ、やっぱり月並みな言葉が真実なんだろうなと思っても来る。

この映画は、というよりエヴァの25年は、そういう葛藤の物語なんだなと、改めて思った。

ひとまずはここまで。やる気を出していこう。