Stand by me もしよろしければ
引っ越した
ということで遂に会社寮へと引っ越しを完了し、再び一人暮らしが始まったわけです。 弊社はとてもホワイトな会社のようで、新人研修と瞑目するような課題もなく、大学関連で残してきたことは今だ進展もなく、というわけでまったくもって時間が余っている。 それで何かを勉強しようという前向きな気持ちが起きるのかといえば、何を仕事で降られるのか、何をやらされるのかとソワソワするだけで、あまり手が付かないしやる気も出ない。 そんなわけで、映画だったりドキュメンタリーだったりツイッターだったりを見たり、或いは周辺を当てもなくさまよってみたり、時間を計ってみたりとするだけで、とにかく無意義に時間を過ごしている。
そんなことをしながら、また見た映画のことを考えていた。 しかも最近NHKで放映された例の庵野監督の(というよりシンエヴァの)ドキュメンタリーを見たものだから、シンエヴァの話を思い返していた。
そうして、どうして自分は他人に生きて欲しいと思うのだろうか、というのをふと思った。
どうして他人に生き欲しいのだろう。 他人に生きて欲しいと願うことの、その無責任さを考えると、本当はそう願うことは決して正しいとは言えないのではないだろうか。 生きることの辛さを背負えと、他人に強要されること。 それが横暴なことに思えてならない。 だから自分は安易に口にしない。 「幸せになってほしい」だとか、「生きて欲しい」だとか、そういう”ひとの幸せと生を願う”言葉を。 だってそうじゃないか。 「幸せになってほしい」なんて、なんて他力本願なんだろう。 幸せになってほしいと願うなら、そもそもそう願う人間が幸せにしてやるべきだ。 それも出来ないにも関わらず、当の本人に向けて「欲しい」と願う。 その2人称は、「その「欲しい」を実現するのはあなただ」と言わんばかりじゃないか。
それでも、「幸せになってほしい」と言われることの嬉しさも自分は知っている。 「生きて欲しい」と願ってしまう自分も知っている。
どうして、自分はそう思うんだろうか。
なんとなくそれに対する短絡的な答えはあって、それはつまり「自分ひとり生きるのが寂しい」という、なんとも自己中心的な動機だ。
自分ばかりが苦しく生きるのがつらい。 この苦しみを分かち合いたい。 そういう、自己中心的な動機があって、だからお前も苦しめと、そう言いたくなってしまっているんじゃないだろうか。
そう思うと、「幸せになってほしい」と、「生きて欲しい」と願う言葉が、なんだか呪いの言葉に思えてくる。 本当は暖かい言葉であるはずのこの応援が、ただ自分を一人にしないでくれという嘆きに聞こえる。
それでも、そう思っているにも関わらず、やっぱり誰かのその言葉に救われる自分がいたりする。
それがなぜだかは、今のところわからない。
ひとまず出社初日の準備をしながら、最後の春休みを満喫しよっと。